RUNDE KLAVIER TAGE 2000 Vol.1

伊藤 恵  ピアノ・リサイタル
KEI ITOH  Piano Recital

《ルンデの会3月例会》
2000年3月9日(木)19:00(開場 18:30)
スタジオ・ルンデ
(名古屋市中区丸の内 2-16.-7)

一 20世紀最後のキーワード  伊藤 恵

 西暦2000年はバッハ没後250年にあたります。この250年後にはきっと、「今年はバッハ没後500年」と言われ、大騒ぎのお祭りが開催されるに違いない、永遠に生き続ける作曲家でしょう。
 今年のプログラムに登場する二人目の『B』、べ一トーヴェンの音楽にも、時空を超えた宇宙の響き、我々生命は宇宙に浮がぶ星々だったのではと、そんな遠い記憶を呼び戻されるような世界観があります。そして、この偉大な二人を心から尊敬していたシューマン。夜空に浮がぶ月に憧れて、その美しさに迷い続ける、そんな印象があります。
 この三人の共通するキーワードは「天使」。
 バッハは天使の言渠、ぺ一トーヴェンは天使への祈り、そしてシューマンは、天使への憧れ。
J.S. バッハ(ブゾーニ編):コラール前奏曲“イエスよ、私は主の名をよぶ" BWV.639
J. S. バッハ(ヘス編):カンタータ第147番より
 コラール“主よ、人の望みの喜びよ" BWV.147
J. S. バッハ:パルティ-タ 第4番 ニ長調 BWV.828
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 Op.109
シューマン:交響的練習曲 Op.13


【参加会費】一般 \4,200、ペア \7,350、学生 \2,100
      一部座席予約可(160席中約50席)
【予約、お問合わせ】スタジオ・ルンデ TEL:052−203−4188
伊藤 恵(いとう・けい) 久しぶりのルンデ
恵
 ミュンヘン・コンクールを制した直後に来演(1984年6月)して以来の例会登場です。
 彼女は桐朋学園高校を卒業後、ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽大学、ハノーファー国立音楽大学に学び、1979年エピナール国際コンクール第1位、80年バッハ国際コンクール第2位、クルト・ライマー・コンクール第1位、81年ロン=ティボー国際音楽コンクール第3位及び特別賞、と数々のコンクールで好成績を挙げ、83年には第32回ミュンヘン国際音楽コンクール・ピアノ部門で日本人として初の優勝を飾りました。そしてヴォルフガンク・ザヴァリッシュ指揮のバイエルン国立歌劇場管弦楽団との共演でミュンヘン・デビュー、その後も各国の主要オーケストラとの協演で着々とその地歩を築きあげ、国際的な活動を続けています。
 最近ではリサイタルのほかフランツ・リスト室内管弦楽団のソリスト、シェレンベルガー(オーボエ)とのデュオなど、「知性と感性の二語と優れたバランス感覚に支えられた構成力溢れる演奏」と高く評価されています。
 録音では、ライフワークとしてシューマンを追い続け、これまでに「シューマニアーナ」8巻を発表、また「ブラームス:ピアノ協奏曲」「ショパン:エチュード集」「プーランク:ピアノ作品集」などをリリースし好評を集めています。
 1993年日本ショパン協会賞、1994年横浜市文化賞奨励賞受賞。

《明治男の気骨》  伊藤 恵
99.12.18 日本経済新聞「交遊抄」

「伊藤君は女じゃないから、皆さんももっと大きな音を出しなさい」
 リハーサルで朝比奈隆先生はしばしば、オーケストラに向かい、こんなことを口にされる。スケールの大きいピアノというおほめの言葉と、ありがたく解釈している。でもそのたびに楽員の方々へ手を振って、「そんなことないです。手加減して下さい」と笑って否定するけれど。
 私にとって朝比奈先生は雲の上の存在というべき巨匠だ。だが、先生が得意にするべ-トーベンやブラームスは、私も大切に取り組んでいることもあり、毎年のように共演機会を設けていただいている。初めてご一緒したのは86年の「皇帝」。「伊藤君、べ-トーベンのリズムとはこういうものだ」と、力強さや躍動感のようなものを熱心にお話しくださった。
 86年秋には、大阪フィルの欧州ツアーに同行することになり、神戸のご自宅までうかがった。モーツァルトを弾く私のフレーズを耳にして、「伊藤君は四の指(薬指)が弱いようだ」と一言。ズバリ指摘されたのは後にも先にも先生だけなので驚いた。
 ツアーでは、初日の舞台終了後、公演を収録したテープを「次の時までに反省しておくように」と渡して下さった。先生は今でも練習はすべて録音し、その日のうちに必ず聴き直されるという。作品に取り組む姿勢を教わった気がする。
 朝比奈先生から感じるのは、明治の男の気骨や明るさ。おこがましい言い方だが、そんなダンディーさが演奏にも色濃く表れている。そこにいらっしゃるだけでオーラを放ち、こっちも普段にないエネルギーが出てしまう。先生はそんな方なのだ。(いとう・けい=ピアニスト〉

《伊藤 恵 と シューマン》  大野和士(指揮者)
CD『シューマニアーナ』のジャケットから

 伊藤恵さんのピアノに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに目蓋を閉じ、その流麗な響きの一つ一つを残らず体の中に汲みつくそうとされているご自身の姿を見出すことでしょう。彼女の演奏には、本来私達の中にありながら、騒擾とした日常に馴れて鈍ってしまっているある感覚、“内なる私”とでも呼ぶ他ないようなある感覚を呼び覚してくれる魔法めいた力があります。いつになく新鮮なこの感覚を前に、私達は最初、言い知れぬ孤独感に襲われ悄然とするでしょう。けれど、やがて静かに私達はこの不思議な感覚の玲瓏とした膚合いを楽しみ、それと語らい始めるようになるのです。そこではありとあらゆるものが、新しい生命をもって輝き出します。自分にとって何の意味をも示さなかった事柄が、かけがえの無い大切なものに思えてきたりします。そして「美」とか「希望」とか「夢J「憧れ」といった人間の創り出した最もすばらしい言葉達を自らのものとして実感するのです。
 伊藤さんの音楽は、私達の内面に、思いがけない角度から直接光を投げかけてくれます。こんなことが起こり得るのは、彼女が偉大な芸術作品の中に全身を委ね、そのかけがえのない本質をありのままに私達に伝える姿勢を常に保ち続けているからです。音楽の原理に極めて忠実な彼女の演奏は、楽想の飛翔、さざめき、ためらい、微笑み、翳り等々を、可能な限り純粋に引き出してくれます。何らの恣意をも感じさせず。
 彼女はミュンヘンのコンクールで優勝しました。このコンクールは、大変な難関として有名ですが、過去何年間かの入賞者の演奏を聞いた限りでは、決して音楽に対し、彼女のような姿勢をとっている演奏家が多いとは言えません。圧倒的な速さとパワーで会場を沸かせるタイプのピアニストはよく耳にしましたが、それは暑い盛りに飲む清涼飲料水のようなもので、その場限りで消えてしまう生理的な快感を与えてくれるだけです。また、そのように、作品を自己の我ままな欲求を表出する手段にしよう、という態度からは、聞き手の心が自ずと開かれるような真の説得力は生れるものではありません。彼ら、演奏のファシスト違は、単に聴衆を束縛し、支配することを望んでいるだけなのです。そう。だから、ミュンヘンでの伊藤さんの演奏会が、格別のものとして、私の記憶にはっきりと刻みこまれているのでしよう。彼女の弾いたブラームスは、こと「内面的な輝き」にかけては一家言を有するドイツの聴衆一人一人の心に静かに入り込み、彼らの魂の扉を、ある瞬間には強く、ある瞬間には優しく、心急くように、また思い緩やかに叩きます。やがて彼らは頭を垂れ、自らの自由なイマジネーションの世界に誘われてゆくのでした。
 その伊藤さんが、今度、シューマンのピアノ作品全曲の録音に、とりかかったことを知り、期待に胸はずむ思いをしているのは私一人ではないでしょう。なぜなら、彼女の終始変わることのない内面への指向、湧出してやまぬ想像力は、ドイツ・ロマン主義、とり分けその申し子であるR.シューマンを演奏するのに不可欠の資質だからです。彼、シューマンほど、内なる世界の深い闇の中に、色彩やかに跳梁する神秘の撩乱を垣間見せてくれる音楽家が存在したでしょうか。絶えず放浪を繰り返し、時に深遠なる夜の世界の空気を呼吸し、見果てぬ夢を憧憬し、子供の世界に遊び、又私達の意識の及ばぬ、幼児期のかすかな記憶を呼び覚ます。また、時には不意にサタンのもとに赴き、やがて我身に訪れる滅亡を予見する。甘美な夢と裏腹に常に襲い来る自虐と深い絶望。およそ人間の想像力のはばたきの許す限りのあらゆる想念や情意を彼は手中にしていました。否、シューマンは、彼の作品を通じ、さらにそれ以上の世界、「永遠」そのものを指し示しているのだと言えるでしょう。
 そういう人だからこそ、彼には何が本質的であるのかはっきりと見えていたのです。見えすぎるほどに! またそれ故、本質を歪め、曇らせる輩に対しては猛然と闘いを挑んだのでもありました。  彼自身の執筆した評論にみられるシューマンの姿は、何という雄々しい衿持と悲愴な愁いに包まれていることでしょう。あの時代、演奏の世界では、一方で音楽の本質を逸脱してもよしとする皮相な名人芸がもてはやされていたことを考えますと、その姿勢には一層頭が下がります。そしてもう一つ、そんな彼ゆえにはじめて獲得することのできたかけがえのないものがありました。言うまでもなく、それは「クラーラとの愛」です。ニーチェが、「いかず後家のぜい弱」と形容したように、一般にシューマンについては、病的なほど繊細で女性的であったとの評がつきまとっていますが、今しがた言及した、真実を求めての英雄的闘争と並んで、シューマンほど男らしく誠実に女性を愛した人間はいないといっていいでしょう。幾つかの曲折を経て、遂に到達したクラーラとの愛の世界は、彼に至福と安らぎをもたらしました。解き難い絆で結ばれた男女として、彼らが示したいつくしみや協力は、その古今に例をみない純粋さで、私達の胸を搏ちます。
 「夢と愛」一。R. シューマンの一生は、人間のもつ様々な可能性を、余すことなく開花させたものといってもよいでしょう。彼の作品に接することは、従って、彼と共に人生の豊饒な営みに改めて目を開かれてゆくことなのかも知れません。そして、伊藤恵さんの演奏こそ彼との幸福な出会いへと私達を導いてくれるのです。


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