○「音楽に寄せて」  【M. H. 】
 ルンデに最初に顔を出したのが、1983年の1月で、以来会員期間23年と6箇月、もう2箇月早くに入会していたら、生まれてからの年月のぴったり半分になる。途中3年あまりは暮れに会費を納めに行くだけの「幽霊会員」だった時期もあるが、随分敷居が高くなったはずの会場は、相変わらず独特の緊張感を持ちつつも居心地がよく(そんなに混雑する公演でなければ、開演までの間ロビーのソファでひと眠りさせていただくこともしばしば)、ずっと自分にとってはほとんど唯一の音楽を聴く「場」であったとつくづく思う。

 そういう感を受けたのは、他の音楽会場がどこかしら「社交的」であるのに対し、ここには「音楽好きのひとり」として参加していれば、決して居心地の悪さを感じさせない場所であったということによるのだろうか(入会資格は、「個人であること」とは、その意味でけだし名言)。それまで時折足を運んだ大ホールの演奏会は学生時代のように音楽好きの友人と連れ立っていくわけにもいかず、かといって社会人としての若輩者は年長者の前で何となく窮屈な、どっちつかずの年代にさしかかっていたし、ちょっと凝った感じの小ホールの演奏会は、演奏家、或いは音楽専門家関係の人が多くを占める中で、演奏中はともかくその前後がどうも落ち着かないことも多く、このくらいなら家でレコード(CDは出始めたばかりで、当時は手がでませんでした。)を聴いていればいいやという気分になりがちだった。

 ルンデとの最初の出会いは、「ブラームスのヴァイオリン・ソナタ」全曲が演奏される予定のコンサートであった。小さいホールと聴いており、当時は全席自由席だったから、相当行列ができるはずと思い、開場より相当早い時間に訪れたら、誰も並んでいないのにびっくりし、ほどなくして寒いからと中に招き入れられてまたびっくりし、ヴァイオリンを弾くはずの浦川宜也さんが急病で、急遽プログラムを作り直しているということでもう一度びっくりした。鈴木夫人も含めスタッフの方がお忙しそうだったので、それならばと、足手まといだったかもと思いつつ、差し替えのお手伝いを申し出て、いわば裏方の仕事をご一緒させていただいたのが、ご縁だったのだろう。その日に会員にしていただき、次に訪れたコンサートが「小林道夫と若い音楽家たち」と題された、ピアノ三重奏曲をメインに据えたもので、感涙もののメンデルスゾーンが聴けた。今思えば(失礼!)、小林さんも若かった

 それからも、年に数回程度訪れるだけであったが、次第に「ルンデの空気」のようなものがはっきりわかるようになってきた。つまりは、ひとりでここに来さえすれば、素晴らしい演奏に出会う、そのことを大いに期待している同好の士がすぐそばにいる(場合によっては、おそろしく少ない時もあったが)という頼もしさのようなものである。

 それ以降、聴くことのできたコンサートの数は、いくつかの推薦コンサートやあしながコンサートを含めても、せいぜい200程度にすぎないだろうし、あまり記録にとどめないたちなので、かなり記憶はあいまいになっている部分はあるが、「二度と訪れそうもないかけがえのない時」を過ごしたコンサートはいくつもある。

 中でも中村攝が弾いたアルカンの「12の短調練習曲」が、未だに信じがたい超重量級のプログラム(「序曲」と「協奏曲」と「交響曲」を含むソロ・ピアノの練習曲。協奏曲の第一楽章だけで30分近くかかる。)として印象鮮烈ならば、同じく中村攝がほとんど無名の作曲家の作品を半日(約11時間のコンサート)かけて弾くシリーズは、いみじくも本人が名付けたとおり「ピアノ音楽各駅停車の旅」として別世界に誘い、夏の夜一晩をかけて敢行される渡辺順生の「オールナイト・チェンバロ」は、始まる前のわくわくした気分と夜が更けるにしたがって漂う疲労感と終わり近くの独特の高揚があいまって、あたかも恩田陸の書いた小説「夜のピクニック」(24時間かけて歩くことだけでひとつの長編小説となっている)の世界(プログラム最後のゴルトベルク変奏曲で、アリアが回帰するところでは、演奏会場に差し込んだ朝日をはっきり感じました。)。

 こうしたことを書き連ねながら思うのは、「自分にとってルンデとは、ひょっとしたら「冬の旅」の主人公にとっての「菩提樹」のようなものであり、今後ますますそうした意味を強めてゆくのではないか」ということである。「冬の旅」の「菩提樹」に先行する曲の光景は心象ともども陰鬱なおよそ色彩のない冬景色であり、寒風吹きすさぶ4曲目の終わりの音形を引継ぎながらこの曲の前奏に至りほんの少ししずつ明るさを増してゆくと、それまで雪の中に立ち枯れていたような木が芽吹き始め、風は若葉をやさしく揺らし、あたりは緑なす春の光景へと一転する。かつて再読したトーマス・マンの「魔の山」では、主人公がサナトリウムでこの曲のレコードを聴きふけり、物語の最後では戦乱の中の点景となってしまう主人公がこの曲を回想するくだりがある。あからさまに描出されてはいないにせよ「魔の山」の主人公も、「自分はそこから随分遠いところに来てしまったが、あそこにこそ幸福があった。」という「冬の旅」の主人公同様につぶやいていたころだろう。「菩提樹」同様、いわば時間と空間を超えて、いつでも回想の中で変わらず音楽を愛する人たちを待ち受けている象徴として、ルンデという場が生き続けるに違いない。

 であれば、最後に、シューベルトのメロディーに乗せて歌われる、ショーバーの「音楽に寄せて」の詩の、「芸術」と「ルンデ」を重ねあわせ、頌歌としたい。

やさしい芸術よ、なんと数多くの灰色の時、
 人生に容赦なくわずらわされた時に、
  私の心に火をつけて暖かい愛情を感じさせ、
   よりよい別世界に運んでくれたことでしょう!

あなたの竪琴から流れ出る溜息が、
 あなたの甘く清らかな諧音が
  しばしば私によりよい時の天国を開いてくれました。
   やさしい芸術よ、私はそれをあなたに感謝いたします!

(フィッシャー=ディースカウの「シューベルト歌曲大全集」における石井不二雄氏の訳)

○ルンデと私  【M. I. 】
スタジオルンデ……私にとってそれはまさに
誰にも知られたくない、至福のひと時を楽しむための『隠れ家レストラン』のような存在。

初期の頃からの会員でありながら、遠方に嫁いだため、なかなか参加できず、毎月、会報の写真を拝見するのみの幽霊会員。
ルンデを閉じると聞き、17年ぶりにルンデへ。逸る心と不安。
しかし、有難い事に、何も変わっていない!…………まるでタイムスリップ!
そして……至福のひと時……

忘れられないのは、
 20年くらい前の吉原すみれさんの例会
一つのりんの音が鳴り、しばらくして、もうひとつのりんの音が鳴らされる。
その時、先に響いていたりんの音が一瞬  色を変えた! 
「あっ!」 音は目に見えるものなんだ。
 と感動した日

最後の例会でのゴルトベルグ。その美しさに涙が止まらなかった。
心を揺さぶられる音楽の美しさに出会った日。

時間は容赦なく過ぎていくけれど、
 心を揺さぶられた『その時』は私の中に永遠にとどまり、 
生きることの支えになっていく。

そんな数々の『その時』を与えてくれたルンデに心より感謝いたします。
素敵な会員の皆様に出会うことができ、とても幸せでした。
ありがとうございました。

また何時の日か、お目にかかれることを願って……感謝。


○「結びの神」はニコライエワ   【Y. N.】
 1989年の10月の始め、私は名古屋転勤を目前に控えて、タチアナ・ニコライエワのリサイタル(サントリー・ホール、確か「小ホール」だった)に出掛けた。それまで「フーガの技法」をレコードで聴いていたが、生演奏を聴くのはこのときが初めてだった。曲目は、「平均律第1集」だったはず。とにかく、とても気に入ってしまって、何とかもう一度聴けないものかと思って新聞を見たら、なんとその直後の7日に、名古屋の「ルンデ」という場所で演奏会があるという。曲目はゴルドベルク変奏曲。すぐに「ルンデ」なる会場に電話をかけた。こうして私の「ルンデ」とのつき あいが始まった。

 仕事の都合だから転勤は仕方ないとしても、私は名古屋には誰一人として親戚・知人・友人がいない。実に憂鬱な転勤だった。そんな私にとって、「ルンデ」は正に一条の光であり、オアシスだった。仕事の具合、フトコロの具合やらで、コンスタントに聴きに行くことが難しかったが、17年間、とても楽しませてもらった。
 当地で期せずして再会を果たした後輩との四方山話に「ルンデ」が出てきて、感激したこともある。現に「ルンデ」でバッタリ出会ったこともある。彼は「バッハしか聴かない」ので、そうそう会えるわけではなかったけれど。東京から友人が遊びに来た時に、「ルンデ」にご招待したこともある。

 17年間、もっとも印象に残るのは、昨年10月10日のショスタコーヴィチ弦楽四重奏全曲演奏。実に充実した一日でした。
 ニコライエワの「ルンデ」での演奏は、89年以降、聴いたかどうか記憶が定かでないけれど、彼女がいなければ「ルンデ」と知り合うのは難しかったろう。彼女が生きていれば、必ず「ルンデ」の最後の演奏会に来てくれただろうに。