○「素朴な聴き手として」  【M. F. 】
 長い航海を終えて、ルンデは凪の時を迎えようとしています。小林先生が最後に残された音は、どこへ帰っていったのでしょう。最後の例会が終わった後、自分の歩き出す方向が定まらないような心もとない日々が過ぎてゆきました。

 80年代のはじめ、名古屋のホール事情がとても寂しかった頃、ルンデのオープンは画期的な出来事でした。演奏者の息づかいが伝わる空間にも魅力がありましたし、何より例会の内容は当初からどれも充実していて、過去のプログラムを見ても本当に贅沢に聴かせて戴いたと感じています。また、朝のコンサートや音楽する仲間たち、Xコンサート、あしながクラブの活動など、音楽を通して地域や演奏家に新しい提言をし、牽引し続けてこられたことは、この地方の文化にどれほど元気を与えてくれたことでしょうか。

 演奏会にまつわる楽しかった思い出はつきませんが、私にとって金澤攝さんとの出会いは、心の大きな糧になっています。
 攝さんのピアノと失われた音楽を巡る旅を始めてから長い時が過ぎました。はるか彼方に眠っていた音楽が見いだされ、音になるまでの道のりはとてもドラマチックで、目の前で聴けることが奇跡のように思われました。まだ、だれも聴いたことのない音楽が、音としてたちのぼる瞬間は、期待と緊張に満ち、開け放たれた扉の向こうに広がる光景の美しさ、厳しさにことばもなく立ちつくしたことが何度もありました。振り返って同じ場所に戻ることはできませんから、聴き手にとっても攝さんの演奏会は、未知の作品と対峙する修行の場であったかもしれません。
 また、作曲家や作品についてのお話やプログラムに寄せられた文章は、深い思慮と洞察に裏打ちされ、作品の理解を助けるとともに、さまざまな問題を投げかけました。作曲家と演奏家の分業によるひずみが生じたもの、演奏することの意義、録音の功罪……。今、私たちをとりまく音楽環境や教育は本当にこれでよいのか、考えさせられることが度々ありました。

 合理・拝金主義が当たり前の当世、欲望と野心とは無縁の純粋な音楽の世界を求めることは、かなわないのでしょうか。あれこれ思いを巡らす時、音楽があるべき理想の姿を求め続けたルンデと攝さんの姿が重なります。真摯にひたむきに、情熱を失わず、たとえ大衆に支持されなくとも、それが本当に優れたものであるのなら伝え続けなければならない、その演奏の場を閉ざしてはいけない……。
 聴き続けることでその志を伝えてゆくことができるのなら、私は、これからも素朴な聴き手でありたいと思います。先入観を持つことなく、無垢な気持ちで音楽と向き合う時、きっと何か心に響くものがあるはず。見るもの聴くもの、全てが新鮮な驚きであったあのころに立ち帰り、音楽を巡る旅を続けてゆきたいと思います。

 ルンデは、人と音楽がひとつになれる最高のホールでした。素晴らしい音楽につつまれて、演奏家、聴衆の方々と過ごした至福の時は、私たちにたくさんの宝物を残してくれました。ルンデと共に同じ時代を生きることができて、本当に幸せだったと思います。
 いつもとびきりのメニューと笑顔で迎えて下さった鈴木先生御夫妻とスタッフのみなさまには、心から感謝の気持ちでいっぱいです。長い間ありがとうございました。そして、幸せな時をご一緒したみなさまと、またどこかで元気にお目にかかれますように、素敵な音楽と出会えますように願っています。


○「私の最終学歴」  【M. H. 】
 私が初めてルンデを訪れた時は、まだ玄関のガラス戸にはテープでバッテンがはられており、コンクリートむき出しのロビーに白いカウンターだけがポツンと鎮座していました。
 2階へと階段を上りホールを覗くと、真っ白な粉をふいたような白木の床に思わず足が止まりました。中では、クロスが張られた後ろの壁に向かって何やら思案中の方々の姿が。入り口に立ち、ホールを見回すと階段1段分にも満たない高さのステージ、そして落ち着いた色合いのシックな煉瓦の壁。そこには、私が今まで見た事のない空間が広がっていました。
 ホールの中は、自然の話し声が全体に行きわたる、驚くべき音響の良さ。それには、何の加工も加えられない白木の床が一役かっているとか。さらに、後ろの壁のあたりで少し音のこもる所があるので、壁のクロスを針でつついて調整するといった念の入れよう。これからここで奏でられる音の響きだけを考えて、設計された空間がそこにはありました。

 25年前、「チョイト電話番でもやらせてください」とお気楽フリーターのつもりで立ち寄ったら一目惚れ。それからというものどっぷりと「ルンデの響」にのめりこんでいく事となりました。
 当時、演奏会というと多目的大ホールで何でもかんでも聞いていた私には、ルンデで聴く今まで感じた事のない音の響きや演奏者の息使い、無音の緊張、そしてお客様の感動はあまりに衝撃的でした。
 初めて聴く曲に感動し、珍しい楽器に驚き、そして国内外の演奏家のお人柄に触れ、学校では学ぶ事がなかった「本当の音楽」と「人の心」を教えていただきました。

 「スタジオ・ルンデの電話番」は私の最終学歴となったのです。


○「眠れる森」の夢   【K. K.】
 もし、この夢が本当なら、私は今、眠りの中にある。深い静寂に沈む森の中で、いつ果てるとも知れぬ夢を見ながら、私は眠り続けている。
 日本では「眠れる森の美女」として知られているチャイコフスキーのバレー作品。そこでは森全体が眠りにつき、森の住民とともに一人の美女が眠っている。彼女は夢を見ているのだろうか。それは私にはわからないが、確かなことはただ一つ、彼女は待っている、森全体を目覚めさせてくれる素適な王子様の訪れを待っている、ということである。
 私は今、夢の中で、この美女と同じ立場にある。私はルンデという音楽の森で、演奏者、スタッフ、聴衆そしてルンデを愛するすべての人々とともに眠っている。私はこの森に眠り、かつてこの場で体験した様々な音楽との出会いを思い描いている。それは、今ではかなわぬ夢となったが、かつては美しい現実だった。

 私が初めてルンデを訪れたのは、オーフラ・ハーノイの演奏会(5月3日)の案内を見てだったが、初めて聴いたコンサートは、1985年5月1日の、渡辺順生による「チェンバロ披露演奏会」だった。以来21年あまりに及ぶ「森」の生活が、ルンデ常備のチェンバロによる初めての演奏会に始まり、同じチェンバロを演奏しての小林道夫によるゴールドベルク変奏曲で幕を閉じたのは、快い偶然である。個人的な都合で、初めのころと終わりのころを除けば、聴きたい演奏会のほんの一部しか聴けなかったけれど、ルンデでの音楽体験は貴重であり、本当に「ルンデがあってよかった」と私は思っている。

 今ではほとんど忘れてしまったとはいえ、個々の演奏会のことを語り始めると収拾がつかなくなる。だから、他のすべては私の頭の中だけの夢として止どめておくことにして、ひとつだけ、ルンデだからこそ聴けたイゴール・ウリヤシュの演奏会(編注:2005年7月3日)について書く。
 チャイコフスキーのピアノ曲『四季』は、よく知っているけれどめったに聴けない曲で、一度生で聴いてみたいと思っていた。全体として見れば特に魅力のある曲とも思えないが、何か心ひかれるものを感じていたからである。それを演奏者自身が強く望んでひきたいと言っているという話だったので、「これはおもしろそう」と思った。プログラムの後半はスクリャービン、ラフマニノフなどで、スクリャービンはこれまで聴く機会が少なかったし、演奏者ウリヤシュについては何も知らなかったが、何か不思議な期待感に胸をときめかせながら、私は聴きに行った。会場に着けば予想どおり、参加者はルンデの例会の中でも特に少ない方だった。しかも日本でのソロ演奏会はこの1回だけという。演奏会は何の変てつもなく始まり、一見何ら特別なことはなさそうに思えた。ところが、終わってみれば、この演奏会こそは私にとって、最も「ぶったまげた」演奏会となったのである。前半の『四季』では、演奏が進むにつれて、彼の思い入れの深さに納得したし、後半も、出だしこそ比較的さめた感じだったとはいえ、演奏が進むにつれて次第に白熱してきて、そのハラハラ、ドキドキする興奮感は、プログラムを終えてなお何回かのアンコールに至るまで、さらに高まっていった。他の人がどう感じたかは知らないが、私にとっては事実はかくのごとしであり、思い返すたびに「ぶったまげた」と思わずにはいられないのである。それ以来、できれば彼の演奏をもう一度聴きたいと思っている。特に『展覧会の絵』とラフマニノフのソナタを聴いてみたい。
 私の夢はいつまで続くのだろうか。そもそも私はなぜ眠っているのだろうか。

 「えっ! ルンデの会はもう終わりですって?」
 信じられないあの日、2006年6月25日、ルンデの会最後のコンサート。小林道夫のチェンバロ演奏によるゴールドベルク変奏曲。お話をするときは謙虚なおくゆかしさを感じさせるが、演奏するときの彼には、こころなしかおごそかな風格がただよい始めている。その演奏は淡々として、しかも堂々としており、ルンデの会をしめくくるにふさわしい、がっしりして重量感のある名演だった。
 彼のゴールドベルクを聴きながら私は、(作曲者バッハのねらいどおり)いつ終わるともしれぬ深い眠りに沈んだ。なぜルンデは終わってしまうのか。生あるものすべてを朽ち行かせる時の魔力が、ルンデを永遠の眠りにつかせたのだろうか。もしそうなら、私は永遠に夢を見つづけるしかない。しかし「眠れる森の美女」はやがて目覚め、森は新たな生命力に満ちあふれる。ルンデもきっとまた目覚めるにちがいない。再び美しい音楽を鳴り響かせるにちがいない。この夢は、「眠れる音楽の森」が再び目覚めるまで続くだけなのだろう。
 私はその時を、音楽の森を目覚めさせてくれる素適な王子様の訪れを、待っている。