Weekly Spot Back Number
October 1999


 どうなっちゃうの? 日本語(1) 10月 4日版(第2週掲載)
 どうなっちゃうの? 日本語(2) 10月11日版(第3週掲載)
 ある音楽家の場合 〜 中村 攝 10月18日版(第4週掲載)
 安直に使って欲しくないキャッチフレーズ 10月25日版(第5週掲載)



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 1999年10月第2週掲載

●どうなっちゃうの? 日本語(1)
Teddy 『……云うても詮ないことながら……』とクドキも出ようと言うのが、最近の(特にテレビ、ラジオから聞こえる)日本語の発音である。「平坦化」などとも云われているが、むしろ「無差別逆転」現象が気になって仕方がないのは、年齢(とし)の所為ばかりではあるまい。
 天下のNHKのベテラン・アナが、堂々と「新」発音を使用しているのを聞くと、ドーナッチャッタノ?と思わざるを得ない。ニュースの時間に、「奉納草相撲が村の大事な《行司》」だったり、「志摩の海でベテランの《尼さん》が鮑採りに潜った」りされては困るのだ。
 いまや「事件の《拝啓》は不明です」だの「巨人、逆転の《軌跡》は成るか!」などは日常茶飯事で、その度にドキンとしてどうにもやりきれない。大体、ものごころついてから何十年も聞き慣れ使い慣れて来た言葉の発音を、しゃべりを職業とする立場の人がそんなにいとも簡単に換えられるものだろうか。こんな情勢の中で、小学校や中学校での国語の時間の「漢字書取」はどうなっているのかと、つい心配してしまう。どうもボクが今そのテストを受けたら(耳から入った「音」をその意味を持つ「字」に変換すると)恐らく無惨な結果になるだろう。  
 《始皇帝》が《飛行艇》と同じ発音だったり(恐らくこれがNHKで耳にした最初の「違和感」だった)、《資産》と《試算》の区別がなかったりするのに、地域の「東海」とアメフトの名QB「東海」を、同様に「飛鳥」と、その地を拝啓―違った(コレ変換ミスですぞ)―背景に展開するテレビドラマの主人公「あすか」をちゃんと呼び分けている。かと思うと「文化財法隆寺の《近藤》」と来ては「現代語における発音の変遷」とやらの法則性もからっきしなく、もうデタラメ以外の何ものでもない。
  先日も、あるドキュメンタリー番組でこんな場面に出くわした。ナレーター役の著名な俳優(兼テレビタレント)某が、その場面の(おそらく「ラダマンさん」だと思う)主人公の名前を、盛んに「ラダマン酸」と発音するのだ。しかも彼はその名前を時には「ラダマン山」とやってもいる。フランスでは小学生の授業に国立劇場の俳優を招いて、美しく正しいフランス語を聞かせるそうだが、日本ではどうなのだろうか。
 日本語に使われる文字のうち、漢字はほとんどの場合「表意文字」として扱われる。しかし「当用漢字」「常用漢字」の規程は、言葉があってそれを書き表す文字がないという不思議な現象を引き起こした。我々はいまや、自分の意志を自国語で相手に伝えることもママならなくなっているのだ。――そして「無言族」が増えている。嗚呼……。(続く)  

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 1999年10月第3週掲載

●どうなっちゃうの? 日本語(2)
Teddy  前回ブーたれてから、NHK−TVを「聞いて」いたら、「拝啓」が影を潜めて「背景」と聞こえるようになった……ような気がしたが、どうかしらん?
 でも、ローカル・ニュースでこんなのがあった。
 『工作教室に子供たちが集まって、家庭でよく使うデンチを作りました。云々』。このデンチ、「転地」と同じ発音だったので咄嗟には何のことだかわからず、俗に言う(季節から考えるとちょっと早いけど)或いは「綿入れのチャンチャンコ」のことかナ、でも関西系での発音は違うなと思ったりして画面を見ると「電池」だ! でも、このアナウンサー氏、どうしてこういう奇想天外な発音が口をついて出るんだろう? 彼らの読む原稿はカタカナで書いてあるのだろうか。
 同じNHKのお昼の教養番組で、小耳に挟んだ講師役の人気歌舞伎役者の言葉が『円歌を謳う』と聞こえたので、名人といわれた先代の三遊亭か、渋いなと思ったら、これが何のことはない「演歌を歌う」だった……。
そして土曜日の夜7時のニュースでも『セーフク(制服?征服?)ダイトーリョーの選挙』(?!)とやられて跳び上がった。これは「セイ・フク」と区切って読んでもらえないかなあ。そうすれば迷わず「正・副 大統領」と云う文字を想像できて、安心して聞けるのに。
 
 聞いていて文字の浮かばない、つまり意味不明のコトバのもう一つの例。『栄から名駅までのトードーが完成しました』。判りますか?トードー(「衝動」や「報道」と同じ発音。「藤堂」ではない)。画面には円筒形のトンネルみたいなのが映ってる。トーやトウ、トオと発音する漢字は? 当、党、刀、頭、棟、塔、冬、糖、籐、盗、陶……一生懸命思い浮かべたが、ドーが「道」だとしたら繋がるのは?いや「洞」かな??そしたらどうなる?どうなる?(洒落にもならぬ)……結局判らずじまい。翌朝の新聞を見たらそれらしい記事がありました。『通信ケーブルを張り巡らすための「洞道」』ふりがなによればこれが「とうどう」だそうです! 放送のための原稿を書いた人、それを読んだ人、自分が知っているから聞いたら誰でもスグ判ると思ったらしいが、ワタシャ浅学にして、生まれて初めてこんな単語(と表記)にお目(と耳)にかかった。そして「洞」をトーとも読むのも。こんなのはべつに『通信ケーブルを通すための地下のトンネルが出来ました』でいいじゃないか。公文書に記載するための専門用語など、我々シロートの知ったことか。
 専門用語と言えば、ルンデ開設以来18年、毎年NTTと飽きずにやりあっているのが「職業分類」。「コンサートホール」「コンサート・マネージメント」に対する分類は「会館」「興行」である。「演奏会をするから会館の空き具合を調べよう」「マネージはどこの興行師に頼むかな?」なんて考えますか、アナタ。(まだ続く)


 ――と、ここまで書き終えてアップロードし、やれやれと夕食の膳に着いた。そして、唐突に『青の洞門』を思い出した。「洞」をトウと発音する例を、である。なるほど。だが今はこれは「トンネル」であろうし、「専門用語」で言えば「隧道」であろう。もっとも「字」を失った現在、これは印刷物では「ずい道」と記される(「すいどう」とも読むようだ)が、いずれにせよ常用の日本語ではない。さてそれから(止せばいいのに)テレビのスイッチを入れたのが運の尽き……だった。『思い思いの「賞品」(「小品」?)を持って集まりました』は「商品」のことだし、『ずんぐりした「同体」を持つ』意味不明な解説が指すのはもちろん「胴体」のことだ。その他「再現」「表現」「証言」の類は、すべて平坦なはずの抑揚が最後の「ン」のみを極端に下げる「方言」になっている。放送に使われる発音は、特にNHKのそれは、今まで日本語の「標準語」だった筈だが、それも今はどこかの(地域不明の)「新興語」に支配されている、と言わざるを得ない。
 今日はもう止そう。
 しかしながら「日本中がゆるみきっている」と云う新聞のコラムの指摘を待つまでもなく、プロ意識、職業意識、職人気質が消えつつあるのは、大変寂しいことだ。アナウンサーをはじめとする「語る」仕事の人々、阪神高速道路や新幹線トンネルに見る建設施工業者、東海村事故の直接担当者など、一片のプロ意識があれば避けられると思われる事態があまりにも多い。そしてそれは、民間のみならず政治、行政の世界でも目に余るのだ。……

drinking teddy
マ、手酌で一杯やりますか。

そちらもどうぞ御勝手に。

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 1999年10月第4週掲載

攝
●『 中村 攝』の場合(1)
 ここに一人の「風変わり」な音楽家がいる。いや「風変わり」かどうかは単に観点の相違にすぎない。作曲家、ピアニスト、指揮者 …… 音楽面だけでなく人間的に見ても極めて「興味ある」存在だ。ルンデで彼を招いて行った演奏会の回数は …… その恐るべき回数を、もう数えることを止めて何年か。そしてその間に、彼は確実に変貌し続けた――音楽的にも人間的にも。ここにごく最近の「プログラム・ノート」から引用した短い文を掲げる。取りあえず彼を紹介する第一歩として ……。

 禅問答のような話だが、音楽を聞く場合、具体的には何を聴いているのだろうか。作品なのか、演奏なのか、音色なのか、作者の意図なのか。
 これらは不可分のようでいて、その視点は明らかに異なっている。
 作曲者のイデアに純粋であろうとすれば、演奏を聴かずに楽譜を読めば事足りるということになる。事実、私にとって楽譜は「文学」であり、それを読むことは演奏を聴くよりも楽しい。しかしそれでは「音楽家」としての資質が疑われよう(「作曲家」ではあるかもしれないが)。
 これから自分の一生で残された時間を考えると(80才までは生き延びるつもりではあるが)今月から毎月の録音をこなして行かねば間に合わない計算になる。作品の価値を訴えたい作品は、どう少なく見積もっても一千曲は下らないからである。そのためには「演奏」の持つ意味、あり方を何としても明確にしたい。ここで得た結論の一つは、「自作曲」として、どこまで消化できるか、である。表現力は創造力に比例する―― いつしか私の頭の中に植えついている言葉である。
     平成巳卯歳 五月 中村 攝 
 
 以前から感じていたことだが、音楽を鑑賞する上で妨害となっているのが「演奏家」の存在だと思うことがある。これは、ライヴ感覚を楽しむ、といった次元とは別の話であって、構造が相当しっかりしている作品の場合、理想的な演奏とは、演奏者の存在を全く感じさせないようなものではないだろうか。
 何か夢から醒めたように感ずるところがあり、今回のコンサートの準備はそれに従った。即ち、演奏者としての私の主張や存在感を可能な限り払拭するという方法である。優秀な作品にはそれ自体に「魂」が宿っていて、演奏者が余計な手を加えた分だけ(作曲者自身も例外ではない)その純度は損なわれてゆく。
 この一見、空想空論に思われる観念が、現実的な演奏に投影される影響は想像に難いものがある。
 要するに、私は“アーティスト”ではなく単なる“作品公開者”でしかない。今夜のコンサートの内容がもし良かったとしたら、それは紛れもなく作品の力である。
 古人曰く「狸の頭を観音にかぶせると、狸が観音になるか、観音が狸になるか、さあ言へ。」 ―― 恐懼再拝。
     一九九九年七月朔日 中村 攝 

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 1999年10月第5週掲載

●安直に使って欲しくないキャッチフレーズ
Teddy  敢えて「キャッチフレーズ」と書いた。屡々コンサートのタイトルに添えられる言葉――「チャリティー」、そして(そろそろシーズン!の)「クリスマス」などのことである。
 前者は、特に大規模災害が起こったときなどに顕著で、もちろんその動機は大変結構だと思うが、やや短絡的な発想のものも少なくないようだ(ここで「チャリティー」と言うのは「義援金」を募る目的にほぼ限定される)。
 一般論として……「チャリティー・コンサート」と銘打った場合、まず、チャリティーが主なのかコンサートが主なのか、第三者として見て判然としない場合がある。また、大半は結果としてどれだけの成果があり、どう処理されたかが判らず仕舞いである。中には目的もなにも不明でただ「チャリティー」とだけ謳っているものもあり、主催者の真意が計りがたい。
 ここにルンデが関与した三つの例を挙げてみよう。
 第一は、ある実業家の親睦団体の例である。このグループは創立周年事業として、地方自治体に環境整備のための資金を寄付することにし、コンサートを主催して、その全収益を寄金に充てる方法を採った。ここで大事なことは、まずコンサートを開くための経費=予算は全額前もって用意されていたことである。ヨーロッパの弦楽合奏団を招いてのコンサートは、極めて適切な料金で一般に提供され、その売り上げ、協賛広告収入の総額は用意していた「予算」を遙かに上回った。つまり、「予算」を単純に寄贈してもいいのだが、それを「投資」し「利益」を産み当初「予算」より多額の寄付が出来、且つ多くの市民が素晴らしいコンサートを堪能したのだった。
 第二は、福祉事業関連施設への寄金を目的とした二人の演奏家のジョイント・リサイタルだ。彼女等は、自らも従事している福祉事業への想いを込めたこのコンサートに、施設の理事者を招いてステージで紹介すると共に寄贈を行い、聴衆にも事業への一層の理解と支援を訴えたのだった。

  第三の例は、つい先日行われた「オーケストラ・アンサンブル金沢第12回名古屋定期公演」である。
 前半の演奏が終わったところで、指揮者岩城宏之氏がマイクを持って登場し、「明日は我が身、ということもある。……今この時、モーツァルトを楽しむことの出来る幸せを踏まえて、台湾の人たちに、どうぞ」と呼びかけ、ソリストのW. ベネット、竹松舞ご両人や団員たちとバケツを持って客席を回った。 oek12.jpg 熱演に満足した聴衆が喜んで思い思いの寄進に着いたのは言うまでもない(終演後「バケツが傍に来なかったから」とポケットの小銭を洗いざらいスタッフの手にこぼしていった若者も居た)。本プロの終わったところで岩城氏が募金の成果を発表し、盛大な拍手のうちにアンコールに応えた。
 以上の例はいずれも趣旨や成果が明瞭で、コンサートそのものも勿論すべて正規の形式であり、満足すべきものであった。それを思うとき、かつてたまたま遭遇した次の例と比較してしまうのだ。
 それは或る大企業の周年行事で、有名外国アーティストのリサイタルだったが、贅を尽くしたパンフレットも配布されて入場料は無料、チャリティー募金は「お帰りの際にお志を」とロビーに透明なプラスティックの箱が置かれている、という趣向だった。演奏家への敬意も込めて幾ばくかを寄進しがてらチラと覗いた限りでは、硬貨があらかたの寂しさのようだった。勿論金額の多少を云々するものではないが、かりそめにもれっきとしたコンサートを無料で聴かせてもらったからには、それに対するお礼心というものもあろうに。つまるところ、催しの趣意がはっきりしないのだ。はたからみると、もし主催者が「チャリティー」を主と考えるならコンサートに費やしたであろう費用をそのまま何処かへ寄進したほうがよほど良かったように思う。「立派なコンサートに無料招待」したければ、変に「義侠心」などチラつかせないでお祝い行事にした方が余程すっきりする。
 とにかく「収益の一部をドコソコへ寄付します」式の「チャリティー」も止めたいものだ。「チャリティー」とは、特に他人を巻き込む(または頼りにする)それは、非常に難しいと云うことを考えて欲しい。みんなが満足の笑顔で加われるものに限りたい。

 「チャリティー」に随分字数を割いたので、なるべく簡単に済まそう。
 もうひとつの、やめて欲しい「キャッチフレーズ」は、これからが「旬」(?)を迎える「クリスマス……」だ。
 クリスマスとは、場所も出演者もプログラムも何の関係もなくて、日時すら単に12月であるというだけで「クリスマス・コンサート」などと銘打つのは、どう考えてもおかしい。もっとも、大晦日に「除夜の鐘」を聞き、その足で神社に「初詣」し、「お盆」に送り火を焚き、「聖夜」を楽しむマルチ宗教の日本なればこそ、か。  
 要するに「季語」でしかないと解釈すれば何のことはないナ、と思いつつも、でもバカバカしいような、腹立たしいような、何とも複雑な気分でチラシに見入るのだが……。
 「チャリティー」にせよ「クリスマス」にせよ、今様で云う「軽いノリ」でサブタイトルに扱われるにしては、もっと意味あることの筈だ。だから、コンサートを大事にするのなら、安易には使って欲しくない。
 今年の本当の「クリスマス・コンサート」は? 
《Pippo Classic Guide》でお確かめを。

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