Weekly Spot Back Number
November 1999


 信じられない……話 11月 1日版(第1週掲載)
10  作る人と使う人 11月 8日版(第2週掲載)
11  『伝える』ということ 11月15日版(第3週掲載)
12  いったいあんたがた、何考えてんの? 11月22日版(第4週掲載)
13  なにか割り切れない話 11月29日版(第5週掲載)



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 1999年11月第1週掲載

Teddy ●信じられない……
 「ちょっと信じられないような」話だ、と、その記事を読んだ途端に思った。「24時間風呂を使って水中出産した赤ちゃんが8日後に死亡した」と報じた新聞記事である(そして同時に、一連のアジ化ナトリウム事件も頭をかすめた)。
 もちろん医学に対して専門的な知識がある訳ではないし、一方で「24時間風呂」なるものも衛生的にどんな仕組みか、皆目判らない。そして出産時の条件も知らないのだから、第三者の無責任な発言なのかも知れないけれど、ただフツーの人間(だと思っている)のフツーの感覚でこのニュースを読むと、これからこの世に誕生して来る赤ちゃんのために、なぜ(所詮水道とは言え)「汲みたての新しい水」(または、せめてまだ誰も使っていない温水器の湯)を用意してやろうとは思わなかったのか? と言いたくなるのだ。
 あの毒物混入事件の場合でも、前日使い遺した電気ポットの水を、なぜ翌朝またそのまま使ったのか、お茶を味わって一息つく楽しみを持つフツーの人間の感覚では到底理解できない。
 紙おむつの全盛だってそうだが、目先の便利さにかまけて、かつて日本人が、いや、人が持っていた大事な「何か」が欠落してしまった? 大袈裟かも知れないけど、そう思ってしまう……。
 この種の「ちょっと信じられないような」話はいくらでもある。
 夏の日盛り、駐車した車の中に長時間幼児を置いたままにすると云った事件も一向に跡を絶たない、とか、膨大な借金をした方が、結局債務放棄をしてもらえるらしい、とか、一生懸命まじめに税金を納めているが、巨額の公的資金を受けた金融機関からではなく、そこが専ら融資している金貸業からしか借金できない、とか、国庫から政党助成金を受ける条件だった筈の企業献金廃止がウヤムヤになりそう、とか、東海村で事故を起こした事業所の作業員がフィルムバッヂを着けていなかった、とか、ゴミの分別収集をうるさく言う癖に、燃えないものと燃えるものの定義が自治体によって違っている、とか、ごくごく最近では、原子力施設を抱える自治体の大半が、事故発生時の住民被爆に対応マニュアルすら持っていない、とか、直前に危ない目に遭っているのに、また懲りずにゴールポストに跳び付た生徒、とか、会議の席で、如何に興奮した挙げ句とは言え相手にハサミを投げつけた大学教授、とか、グット品下がって女性トイレにヴィデオカメラを持ち込んだ公務員、とか、とか、とか……。
Teddy
 ああ、もうどうなっちゃったの? これ。
 やっぱり一人で飲んだくれるしかないンかねェ、全体……

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 1999年11月第2週掲載

●作る人と使う人
Teddy  愛知県立図書館の新検索システムが、導入と同時にダウンしたそうだ。
 以前にも、愛知のある自治体で新管理システムが多額の投資をした挙げ句不具合が判明して、スタートせずに消えた。「ハイテク時代」といわれて久しいのに、この種の例が後を絶たないのは、不思議とも何とも言い様がない。まさに「懲りない奴等」である。
 少し古い話だが …… 某国立病院が「もうお待たせしません!」と鳴り物入りで導入した薬局の薬価計算システムは、肝心の薬の名前を係員が処方箋を読んで薬品リスト(コレ膨大)から捜し出し、そのコード(何桁かしらん)を手作業でキー入力するものだったため、かえって時間がかかる始末。また別の病院では、保険等各種条件下で異なる掛け率による薬価計算をあらかじめ電卓(!?)で行って、結果を入力していた(最新技術の粋を誇るべきシステムが、1980円也の電卓無しでは稼働できぬ可笑しさ)……。
 これらの例は、コンピュータを導入するに当たって、「彼」(コンピュータです)を『何故使わなければならない』か、そして「彼」に『何を』『どう』させたいのか、その結果「人」(操作する人間のみならず、それに関わってくるすべての人々)はどういう『恩恵を蒙る』か、についての検討が全く不十分であることを示している。
 特に、『恩恵を蒙る』については、いま使われているシステムの大半は、意図が「係員」(つまりはその企業)にとっての簡易化・合理化であって「客」に負担の増加を強いる(労力の転嫁)以外のなにものでもない。それが「サービス強化」であるらしいのも不思議だ。
 それはともかく……肝心なところは、コンピュータを働かせるソフトウェアの作成の問題だ。いわゆる「2000年問題」でも、プログラム開発時に、たかだか20年・30年先の見通しもなかった、とは信じがたいのだが。当然来るべき2000年である。たとえ表示は下2桁でもキカイは4桁で動いていれば。メモリー節約だけが理由でもあるまいが。
 性急に結論を言えば、ユーザー(恩恵を蒙るべき第三者)とプログラマー(発注者を含む。但し大半の場合、発注者は事の重大さを認識していない)の意識のずれの問題でもある。
 一つの典型的な例:JRの電話による列車予約システム。質問に応じて希望をプッシュボタンで応える方式だが……利用日、列車番号等8項目の入力を終えて最後の質問「禁煙席かどうか」に「禁煙」と答えて終了の合図を送ると、無情にも「ご希望の列車に禁煙車両はありません」。おまけにご丁寧に「よくお調べになってお申し込みください」である。更に許せないのは、じゃあ「喫煙席」で我慢しようと思っても、またぞろ最初からやり直しなのだ。「禁煙車両」があるかないか(もしくは「禁煙席」は満席であるかどうか)は、列車番号入力した時点でキカイには判っているのだ。無ければ白々しい(最後の)質問はしてくれるな。そして親切心があるなら「禁煙席ではないがいいか?」と訊いてくれよ。それがサービスというものだろう。
 つまりプログラミングの基本の考え方に、何をさせるかが欠如しているのだ。「人」が応対したときどうかに、ちょっと思い至れば何でもないことではないだろうか。要はそのシステムを利用しない人が発注し、ロジックにさえ誤りがなければよしという考えでプログラミングされているのではないか。
  
 作る人と使う人が別、大袈裟に言えばこれは現代社会が担った宿命である。
 「ものを作ること」の難しさは、こういう面にも顕著だ。日常的に利用されることが主眼の「もの」は、まず使う側の意識でキメ細かに考えて欲しい。一方的に使う側の論理を押しつけられては迷惑以外の何物でもないのだ、と感じさせないように。
 入ろうという意志が毛頭ないの勝手に開くドア(アラビアン・ナイトの時代の方が遙かに進んでいた。「開けゴマ」と言われてから自動的に開く)、ひょっとして「あなたの預金残高は」と読み上げられるのかと辺りを窺いたくなる位景気のいい挨拶をするATM。掛け間違いで受話器を置いたのに「マイドゴリヨウアリガトウゴザイマス」と相手をからかう公衆電話……。ヘンな世の中である。

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 1999年11月第3週掲載

●『伝える』ということ
Teddy  2000年5月で、スタジオ・ルンデは開設以来20年目に入る(いま、ルンデのサイトでカウント・ダウンをしている)。その当初からの「ルンデの会」会員であるTさんから「この頃こんなことをしています」と、お便りを頂いたので紹介しよう。Tさんは大阪在住で、主婦であり音楽教師でもある。

『私は視覚障害者の為の音訳ボランティアをしています。眼の見えない方の為に、本を読んでカセットテ−プに録音するのです。この頃は病気や事故で途中失明する方も多く、録音図書の需要は増えている様です。
 眼の見えない方も色々な事に興味を持っておられます。普通の晴眼者と全く同じで、小説、随筆、俳句、歴史、科学、経済、スポ−ツは勿論のこと、コンピュ−タ、園芸、写真を撮る、昆虫採集、楽器の演奏等々もなさる様で、全く感心します。
 ところで、自分の為に読む時はおおよそ内容が理解出来ればまあそれで良いのですが、他人様の為にそれも声に出して読むと言うのはなかなか難しく、正しい読みや抑揚の為に辞書を手放せません。その上、文字だけでなく、図表、数式、楽譜等もきちんと内容を伝えなければなりません。これが又大変です。そして、調査が済めば読み始めるわけですが、標準アクセントで読むというのは、関西人は苦手です。
 楽譜なども大変です。単音のメロディはまだ良いのですが、重音となるとお手上げです。断りを言ってから、歌ったりキ−ボ−ドで演奏してみた事もあります。何か良いアイディアはないでしょうか? 点字楽譜をよみこなすというのは途中失明者には大変な様ですし、何とかして音声で表現したいのですが・・・
録音図書  さて、これ迄はカセットでの貸出しのみでしたが、今では一旦カセットやMOに録音したものをパソコンで編集後、CDにコピ−して貸出しが可能になりました。カセットだと、例えば一本の紐の様なもので、初めから順に聞く事は出来ても、聞きたい所を自在に出す事はまず不可能に近い事でした。でもパソコンで編集をしたCDではこれが出来るのです。目次を聞いて聞きたい所へ飛んだり、ペ−ジを指定してそこを聞いたり、図の説明を繰り返し聞く事も可能になりました。私達と同じ様な本の読み方が出来るのです。夢の様な録音図書です。将来の電子図書館時代を想定したものとも聞いています。おかげで私は今、慣れないパソコンで悪戦苦闘して編集に取り組んでいます。
 ふとしたきっかけでこの世界に入ったのですが、私の方が色々得る事も多く、楽しく有難い事だと思っています。利用者の要望に比べ、出来上った録音図書の数は余りにも少なくまだまだ足りない状態です。ひょっとすると明日は私も利用者かもしれません。今、私達が手にする本すべてが録音図書にもなればいいなと思っています。』【写真は録音作業中のTさん。「日本ライトハウス」のパンフレットから】

 Tさんは『きちんと内容を伝えなければなりません。これが又大変です』と、さらりとおっしゃっているが、『他人様の為にそれも声に出して読むと言うのはなかなか難しく、正しい読みや抑揚の為に辞書を手放せません』という努力は並大抵のものではない。この欄で前に論じたように(「どうなっちゃうの? 日本語」参照)「伝える」ことを日常業務として行っている「プロ」たちは如何であろうか。

 それはさておき、音楽の演奏も「伝える」そのものだ。過日ルンデで行われたバルトーク弦楽四重奏団による「室内楽公開レッスン」に見た一齣をご紹介したい。
 あるグループの演奏を止めて、講師役のバルトークSQのメンバーの一人が客席に向かって『いま、主題は聴こえましたか? わたしには聴こえなかった』。勿論ちゃんと音にはなっているのである。『あなたがたは、楽譜を正確に、そしてきれいに弾いてはいる。だがそれだけではいけない。音楽の演奏は、そこに主張がなければならない』と。別の場面での『この作品の持つ性格(character)を言葉で表してみてください』には返答無し……。
 まだまだ多くの、非常に示唆に富んだ指導が展開されるのだが、聴講していた年配の音楽愛好者(会社経営)の言葉『いままで何も知らずに音楽を聴いていたことに気付き、ただただ恥じ入るばかりです。涙が出るほど感激しました』に象徴される貴重な時間であった。ちなみに、5時間半(!)に及ぶレッスンに最初から最後まで熱心に耳を傾けていたいたのは、遠く兵庫県から来場された方を含めほとんどが一般愛好家であり、音楽学生・(特に)指導者は皆無に近かったことは何を意味するのだろう。
 別事ながら、一時期盛んになりかけていた音楽学生の室内楽指向が、最近また下火になって来たらしい。その原因がどうやら「3人以上のスケジュールを合わせるのが困難」なのだそうで「精々デュオ止まり」だとか(レッスン受講5グループのうち、最も充実したアンサンブルを聴かせたのは、普通大学卒業の社会人でしかもそれぞれ異なる府県に居住、というグループであった)。なにはともあれ自分の都合が最優先で、何が何でもやろうという強い欲求や意志が乏しいのだとすると、日本の音楽界の21世紀への展望は、実にキビシイ……。

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 1999年11月第4週掲載

●いったいあんたがた、何考えてんの? Teddy
 「さあ今日も一日、とにかく頑張るぞ!」と、気持ちだけでもさわやかに持って朝餉の椅子に座って新聞を開いたら、いきなり『デノミ実施か』という見出しが飛び込んできた。オイオイ、2000円札の発行はどうなってるんだ? 話の順序がまるっきり逆じゃないのか? ド素人の我々には到底理解できかねる発想だ。大体2000円札の発行で、どれだけの混乱が起きるかちゃんと判ってンのかねえ。あらゆる自動販売機(これぞ悲しい日本文化の象徴)、金銭登録機(レジスターって言うの?)から手提げ金庫、伝票の類いまで、ミーンナ新しくしなければならないんだよ。作り直す仕事の方はいいよ、特需だもの。でも買い直さなければならないシモジモでは、そんな「予算」どこからひねり出せと言うの? それとも、政府が一切無償で取り替えてくれるとでも言うのかね? それだって元はと言えば我々の税金なんだぜ。ご遠慮申し上げますよ。しかもそれが、2年先のでのデノミ実施でぜーんぶ無駄になるなんて、一体全体何考えてるんだよ、オエライ(筈の)方々は! そんな壮大な無駄遣いがまかり通るとしたら……もうッ! そう言えば「省庁再編」だってそうだよ。単なる名前の書き換えだけに、あらゆる書類、印鑑、名刺からおよそ名前が入っている印刷物の廃棄と新調、電話帳をはじめとするアドレスリスト類やコンピュータ・ソフトの作り直し等々、これは当の省庁だけでなく、あらゆる民間が自分の費用で対応しなければならないんだよ。まかり間違っても「景気対策」なんて言えるもんか。
 全体2000円札だって「欧米では1,2,5の単位で通貨が発行されているから」と言うのが新発行の理由だときては何をかイワンヤ。そんなの今に始まった事じゃないし、無けりゃ決定的に不便だという話はこれっぽっちも聞いたことがない。どうしても必要なんなら、当然20円硬貨も、200円硬貨も、2万円札も作ればいいじゃないか。おまけにお札のデザインが「守礼門」に「源氏物語」ときては、魂胆見え見えのお恥ずかしいアイデアだ。
 セイジカの皆さん、一体全体何考えてンの?
 2005年に「中部国際空港」が開港するハズで、そうしたらご用済みとなるハズの小牧空港が、新しい国際線施設を作ったのも判らない話。もっとも、国際定期路線が相次いで撤退しているのに、新しい空港を今よりずーっと不便なところに、無理して作ろうという発想がそもそも解せない。そしてそれがもし「瀬戸万博」対応がねらいだったら……あとは一体どうなるの? こういった「一過性」の安直な発想にはやりきれない想いをさせられる。もっと気宇壮大な、未来をしっかり見据えた着想は生まれないのだろうか。
 その「万博」にしろ「新空港」にしろ、基本的な「アクセス」のお粗末さは心細い限りで、その現在計画でさえ「万博後」のことは全く計算外じゃないか。「公用車」にふんぞり返っていれば済む方々には判るまいが、例えば「名古屋駅」に着いてからでさえ、またぞろテコテコ乗り換え乗り換えでたどり着く会場に、どんな魅力があるのかさっぱり見えてこないのも摩訶不思議。いまや「サウンド」と「映像」と「大観覧車」だけでは意味無いのだ。『デザイン博』は教訓になっていないのか?

 話は変わるが、神奈川県警をはじめとする一連の警察不祥事。このご時世、大勢人が集まれば、中には不心得者もいるかも知れないということを前提に、万一そういう事態が起こったら、果断に処理することになんの不都合があろうか。いわゆる「キャリア」なる出世指向者にとって、わずかでも「部下」に瑕疵があったらマイナス評価になる、という基準が警察内部にあるとしたら、それは噴飯ものだ。むしろ「この通り不正を発見したら素早く対処している」ことを評価すればいいじゃないか。勿論内部に対してではなく、外部から信頼される在り方の証しとして。「泣いて馬謖を斬る」という中国の諺があるが、馬謖どころか反社会分子さえも斬ることが出来ない救いがたい体質は、政治の世界にも蔓延していることは、周知の事実だ。

 「自浄作用」の象徴であった森林や海洋でさえも、いまは「人」の心ない仕業でその能力を減じつつある。我々は充分な自戒の念と共に「一体何考えてるの」と自らに問わねばならない時に来ている。

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 1999年11月第5週掲載

●なにか割り切れない話 Teddy
 東京で特徴ある活動を続けてきた「カザルスホール」が、親会社の経営不振から来年3月を以てその自主事業を停止することになった。音楽界にとってはショックであるとともに、日本の文化的土壌の貧困さと基盤の脆弱さを端的に露呈する出来事でもある。
 ところで、このホールは小型ではあるが個性的なパイプオルガンを設置してまだ日が浅いのだが、日本のコンサート界ではまだまだマイナーな存在でしかないオルガン音楽の一般への浸透を意図して「ランチタイム・コンサート」と名付けたミニコンサート・シリーズをほぼ月1回のペースで続けている。いわゆる昼休み時間に、オルガニストは若手を中心に起用して、45分程度のプログラムを聴衆から「100円以上」の喜捨を求めて聴かせるもので、なかなかの好企画である。
 過日上京した折り、それを聴く機会を得た。この種の催しは、経済的には主催者である会場と出演者のボランティア精神が頼りであることを、自身の立場から身にしみて承知していることでもあり、有難く分相応の協力をさせてもらって聴衆となり、申し訳ないような満足感を得た。
 ところが、である。数日後に送られて来た同ホール発行の小冊子のなかに『百円玉で買える贅沢、の巻』というコラムを観て、思わず唸ってしまった。
 「百円玉をチリンと入れて入場」し、「小学校の遠足の前日、百円玉を握りしめて友達とおやつを買いに行ったとき以来」楽しめ、「都会の片隅の、何という贅沢であろうか」とおっしゃるそのコラムの筆者氏は、斯界の実状を最も良くご承知の立場の音楽関係者である。
 勿論「100円以上」という設定から言えばチリンも別段文句はないことになるのだろうが、何故「100円以上」としたかの趣意を、汲むことの出来る立場にある人にはそれなりの対応が望まれているのではないのか。(少し以前、知多半島の料理旅館が「お代はお帰りにご自分で決めてお払いください」と云う企画をしたところ、大半の客が散々飲み食いして宿泊した挙げ句、ほんの申し訳程度の金を置いて帰ったというのがあったのを思い出した。)それに、こういうのを「贅沢」と呼ぶのだろうか。
 日頃音楽とはおよそ無縁の慌ただしい生活を送っている人が、束の間の心豊かな時間を得たのなら、それは「贅沢」と呼ぶに相応しい。このコラムの文は、ちょっと立ち寄ったOLか主婦の、思いがけない収穫談としては微笑ましいのだが。よしんば現実に100円玉を入れたとしても、そこは言葉の綾で言い様があるだろうし、諸般の「危機的状況」の中でなお且つ将来の布石を志して奮闘している現場を知る人は、そのコンサートの価値を全く別の観点から、何より「主観」でなく「客観」で意義を説いて欲しいのである。
 もっとも、この種の「割り切れない」話はこれにとどまらないが……。


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