Weekly Spot Back Number
December 1999


14  「オンチ」症候群(附・ケイタイ公害) 12月 6日版(第2週掲載)
15  ヴァイオリンは見た(2) 12月13日版(第3週掲載)
16  オモチャ屋さんの閉店 12月20日版(第4週掲載)
17  「カレンダー」考 12月27日版(第5週掲載)


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 1999年12月第2週掲載

Teddy ●「オンチ」症候群(附・ケイタイ公害)
 大分前の話だが、作曲家の一柳慧さんが「小さな音を大事にする」ことを提唱されていた。元来日本人は「音」に大変敏感であり、興味を持っていたはずである。ありとあらゆる「音」対して、それを描写しようとする多彩な言い回しを創り出し、動物の鳴き声は勿論、自然現象さえも擬声語・擬音語で巧みに表現したことでも判る。また、音楽の分野で云えば、邦楽――歌舞伎の下座音楽などでは、太鼓一つで、水の流れ、波のうねりやら、風や雨の気象状況(そして雪の降る!さままで)を描き出すのだ。

 さて、「音痴」という語は本来、たとえば大桃美代子嬢の如く、本人の意図とはうらはらの音程がほとばしる様を、ユーモラスに、また親しみを込めて呼ぶことに使われる。ところがこれが転用されて、地理に弱いことを「方向オンチ」、味覚に無頓着なことを「味オンチ」などと言うようになった。こちらは語感にいささか侮蔑の意がちらつくようである。
 で、今回テーマに用いた「オンチ」は、ちかごろ顕著になり始めた「音」に対する無関心、無感動(あるいは無神経。ちょっと大袈裟に言えば、音楽そのものの存在すら霞んでしまうかも知れない世の流れなのだ、とまで言いたくなる)な現象を皮肉っている。
 それはいろいろな家電製品に取り付けられた電子音から始まる。プーとかピーとかチンと云っていた時代は良かったが、いつか「メロディー」なるものを奏でるようになったあたりから雲行きが怪しくなった。 そしてケイタイの普及(というよりも日常生活への濫入)によって、今や一つのピークに達している。大体電話の呼び出し音(いまは着信音と言うらしい)は、時と場合によってはドキンと来て精神衛生上よろしからぬものである。しかし「噪音」であるから無視しようと割り切れば、まあいい。ところが「着メロ」なるものは、音楽めかしているだけに始末が悪いのだ。つまり聴かされてしまうのである。なまじ音楽に関心があると「噪音」として無視しがたく、でも結局一本調子で何の情感もなくただ音が上下しているだけの音の流れに味気ない思いをすることになる。最近は「和音」と称する複音を発生するヤツも現れた。こんな「音楽もどき」が幅を利かせては、何をか言わんや、である。
 それがどういう結果を及ぼすであろうかという、いい例がすでにある。巷には「バックグラウンド・ミュージック」が氾濫している。ホテルのロビー、喫茶店、地下街、観光地 etc. テレビ番組の背景でいまや常識になっている、セリフも聞こえなくなるほどウルさい、ヴォーカル入りの「ミュージック」……結果、音楽大学でも講義の資料にレコード(今はCDと言わないと通じないか)をかけると、条件反射的に起こる私語……。斯くて、音楽は主役であり得なくなる……。

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 1999年12月第3週掲載

●ヴァイオリンは見た(2)
Teddy  9月のこの欄で、盲目の世界的なヴァイオリニスト和波孝禧さんのことに触れた。
 その和波孝禧さんは今年のルンデでは、オール・ベートーヴェン初期ソナタという、地味ながら大変興味深いプログラムを聴かせてくれた(12月7日ルンデ)。
 演奏内容が素晴らしかったことは言うまでもないが、いつもながら感心させられるのは、その演奏姿の美しいことである。彼はかつて『わたしには見えると言うことがどういうことかは判らない。ただ感ずるままの姿勢をとっているだけだ』と言う意味のことを語ってくれた。聴衆が一緒になって音楽に没入できるその立ち姿は、まさに表現することの原点だと思う。
 コンサートの後で『今度サイトウキネンで演る《復活》マーラーの練習に取りかかっているんですよ。何しろ楽譜を作るのが大変でね。100ページ以上になっちゃって』と。点訳した楽譜をもとに、オーケストラの一パートを受け持つ……単に記憶力だけでは済まされない想像を絶する世界である。
 そう言えばこんなこともあった。或る年のルンデ、ピアノ・トリオの練習中に曲を止めて『チェロ君、そこに decrescendo と書いてあるでしょう?』。チェロ氏つくづく楽譜を見て『ああ、そうです』。
 サントリー音楽賞の授賞式のパーティーでの挨拶を思い出す。極く普通の口調でそして謙虚に、受賞の喜びと今後の抱負などを簡潔に述べられた。傍らの堤剛さんが『いつもながらお話が上手ですね』と洩らす。横手から見ていた私は、その時和波さんが指先を小さなメモに当てているのに気付いた。きっと要点が記してあったのだろう。しかしながらその挨拶は決して原稿の棒読みではなく、いつもの通りの暖かい語りかけであった。そして思ったのである。国会で演壇に立つ政治家諸君も、一つ点字の勉強をされては如何か、と。味も素っ気もない「施政方針演説朗読」や「予定稿読みっこ論戦」は何の説得力もない。あろうことか自分の意見すら暗記する事が出来ない(?)のなら、せめて点字原稿を使って、顔はまっすぐ相手を見据えて、堂々と表情豊かに発言できないものか、と。
 さて、その和波さんは、今コンピュータに、そしてインターネットにハマっているそうだ。彼からの打ち合わせのメールやファックスは、すべて自分でされているとか、奥様が、このごろは私の知らないうちにどんどんやってるみたい、と苦笑される。音声読み上げソフトを使用しているので『画像が多いページは困るんですよ。テキスト中心だと助かりますね』という言葉には大層実感がこもっていて、視覚障害の方へのインターネットの普及ぶりを考えると、今後のページ作りにはよほど留意せねばなるまいと思ったことであった。

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 1999年12月第4週掲載


●オモチャ屋さんの閉店
Teddy  戦後50年営業を続けてきた街のオモチャ屋さんが、遂に廃業――と言う新聞記事を見た。
 オモチャ屋さん=懐かしい「模型屋さん」である。還暦も過ぎたいま、思い出す少年の頃の遊びは、文字通り手造りであった。そして原っぱ――この言葉は、都会では死語に等しい。かつてはいたるところに手頃な原っぱがあったものだ――に出ては、その日の遊び道具を見つけることから始まった。そしてやがて、凧つくりから模型飛行機へ。模型屋さんから少々の角材や竹ヒゴを買い求め、兄の使い古したナイフを譲り受け、母に頼んで ゴハンから糊を作ってもらい、父の書斎から丈夫な和紙を何枚かせしめて、大空を翔たくであろう愛機の勇姿を思いめぐらして、胸躍らせながら切り、削り、貼り、バランスを計ってはやり直し……たものであった。
 やや長じてからは、鉱石ラジオに目に見えぬ世界の不思議さを教えられ、やがて我が家で飽きたらず友人や父の知人宅まで押し掛けて、ラジオや電蓄の修理やら受託製造にいそしんだりした。
 言ってみれば、欲しいものは自分の手で作る時代、おいそれとは好みのものを売っていない時代であったのだ。そして、自分の手で作られたものは限りなく愛おしく、子供部屋の棚には、もう動かなくなったり傷ついたりした再起不能の作品たちがいくつも並べられていた。
 モノのあふれている時代、なんでもオカネで手に入る時代、少年たちの多くは、自ら創り出す喜びや果てしない夢や愛情といったものから、知らず知らずのうちに遠ざけられてはいまいか。理科や数学を勉強して、将来何の役に立つ?と言った声が中高生の中から出始めているという。受動的な生活環境が、自ら考え、判断する力を自然に削いで行く。いまの物質的豊かさを目前にして、それが一体誰が考えどうやって創り出しているのか、に思い至らないとすると、21世紀の行方は相当に暗いと言わざるを得まい。
 また、新しいゲーム・ソフトの騒動があったようだ。その熱意とエネルギーを、半分でもいいから「創造」に向けられないものか。与えられたプログラムに一喜一憂し、次なる新作を渇望することに憂き身をやつするばかりでなく、簡単なものでもいいから自分のオリジナルな道具、遊びを目指して欲しいものである。

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 1999年12月第5週掲載


●「カレンダー」考
Teddy  もう間ももなく「新しい年」がやって来る。
 その「新しい年」を迎えるために、必要不可欠なもの……そのトップは「カレンダー」、そして「手帳」。また、毎年苦労するのが、カレンダー、手帳選び、でもある。気に入ったものを見つけるのは、これがなかなか困難なのだ。『欲しい』と思うものの備えているべき条件――単純明快。1週間が「日曜日から始まる」こと。「第6週が独立」していること。
 ところが豈図らんや、この条件を満たすものがなかなか見つからないのだ。
 「週末」意識と「週休二日」制度の普及とやらで、月曜日から始まる一週間、土日同枠折半、第6週の第5週への間借り……が大勢を占めている。
 この驚くべき不合理さは、一体どこから来ているのだろうか?
 ちょっと話がそれるが、最近の所謂「ビジネス・マシーン」にも、同様な一方的決め付け設計思想が窺われる。たとえばコピー機。ほぼ全部の「最新デジタル機」なるものは、定型紙の使用を前提にのみ考えられている。非定型の原稿・被コピー紙(?)を使用しようとすると大変厄介なことになる。機種によっては尋常な手段では受け付けないものまである。
 世の中に週休2日を実施している企業は多くあろうが、その全てが「土日」では無いはず。また、その休日である「土日」だけが半分のスケジュール欄で事足りるわけでも無かろう。ましてや、第6週は立派に独立した第6週であり、第5週の付け出しであろう筈もない。そしてこれらの不便不可思議な現象の起こる最大の原因は、おそらく『デザイン上の問題』であるようだ。一見「実用的」であるようで、実は不合理の極みであることを、デザイナー氏は考えたことがあるだろうか。
 見てくれのために、日常の用に不満を感じる――いま世の中の随所に見られる傾向である。「不合理ニッポン」に、来るべき世紀こそ別れを告げてたいものである。

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