Weekly Spot Back Number
Sept. 2000


53  恐るべき利己主義 9月 4日版(第2週掲載)
54  見る文章、口にする文章 9月11日版(第3週掲載)
55  コンサートとマナー(1) 9月18日版(第4週掲載)
56  コンサートとマナー(2) 9月25日版(第5週掲載)



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 2000年9月第2週掲載

Teddy●恐るべき利己主義
 まず、問題の新聞記事を再録する。
 朝日新聞(2000年)9月2日(土)付け夕刊中部本社版3版5頁「ウィークエンド経済」欄コラム『二言三言』。

<おいしい話>
▼ニューヨーク転勤になった友人が借りた部屋は、前の住人の豪華な家具がそろっていた。その友人が去年、勤務を終えて帰国する際、家財道具一式をフリーマーケットに持って行った。売り払ってもうけた額は何と2000ドル。うまい私財提供の方法もあるものだと感心した。(運輸・女・29歳)

 この「友人」なる人物の感覚は、全くもって正常の神経では理解しかねるものがある。「前の住人」は「後の住人」の為を思って家具を遺していった、と何故考えられなかったのか。現に当人は、その恩恵に浴しているではないか。それとも「よけいな物を置いていきやがって、大いに迷惑した」とでも言うのか? 彼の後にそこを利用する人のことをこれっぽっちも考慮していない恐ろしい利己主義者だ、と非難されて、何ら恥ずべきところもなく反論できる根拠があるのか。また投書したご本人も、何に対する何をもって「うまい私財提供の方法」と宣うのか、その真意を計りかねる。さらにこの投書(?)を「おいしい話」として採用した新聞社の担当者は、一体何を意図したのだろうか、まったく理解に苦しむ。
 大袈裟に言うなら、冬山で遭難寸前の状況になり、やっとたどり着いた無人の山小屋が、先の利用者のために無残にも荒らされていたとしたら、と、想像してみては如何だろうか。

 ちょっと話題を逸らして私事で恐縮だが、先年欧州へ旅行したときのことを書かせても らう。
 ブダペストを訪問した時は、正味4日の滞在をバルトーク弦楽四重奏団のメンバーが、一人一日づつエスコートしてくれると言う破格の厚遇に甘んじさせて頂いた。中でもチェロのラーズロ・メゾー氏は、自らハンドルを握って市内観光をしてくれたが、ご他聞に洩れず行く先々で駐車スペース探しに苦労した。そんな時、折良く発車して行く車を見つけると、嬉々として「Oh! Good friend!」と歓声を上げながら、その跡へすかさず乗り入れる。このメゾー氏の連発する「Good Friend!」は大いに気に入った。
 その後自分で走り回った先々で、随分「Good Friend」のお世話になったし、自分も「Good Friend」になっていい気分であった。例えばドイツでは、パーキングメータはコインを投入してネジを巻く「旧式」なものなので、時間内に出ていった後もチャンと働いている。名古屋のみたいに5分しか利用しなくても300円飲み込んじゃって知らん顔しているのとは違う。だから郵便局や駅でほんのちょっとした用を足すとき、時間内に立ち去った「Good Friend」の恩恵を随分受けた。こちらも次の利用者がニヤっとするのを想像しながら、惜しみなく(?)コインを投入したものである。

 さて、本題に立ち戻り、他人のメイワク――ケイタイのところ構わぬ調子外れな着信音や高声の会話、列車の座席に遺されたゴミ、常識を疑う出鱈目駐車、「開店」前に空っぽになってしまうお祝いの(筈の)生花台、などなど、どうして日本は、他人を思いやらない我利我利亡者天国になってしまったのだろうか。さても悲しいことだ。
 もっとも、新聞には読者からのミニ情報欄があって、そこには時折、見知らぬ人からの親切に感激した報告が載っているのがせめてもの救いではある。

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 2000年9月第2週掲載

Teddy●見る文章、口にする文章
 「話し言葉と書き言葉」とは、よく言われるところである。例えば大学でも、純然たる会話調の答案にお目にかかることがある。「話し言葉で書く」ということは、そこに一つの表現意図が存在するからであって、文学的修飾を必要としない場合には不適切であろう。
 それはさておき、ここで取り上げたいのは、文章を作るに当たって、最終的にそれが「目で見る=読む」ためのものか、「耳から聞く=声に出して読み上げる」ためのものか、が顧慮されていない場合のことである。
 先日も、テレビの天気予報で「夕方から所によっては20ミリ程度の雷を伴った強い雨が降るでしょう」というのがあった。一気に読み上げられるのを聞いていると、この「20ミリ程度の雷を伴った……」というところが無性に可笑しい。どんな雷なんだろう。20ミリ程度の雷なんぞ、なんとなく可愛いげではないか。これは、せめて原稿に「夕方から、所によっては20ミリ程度の、雷を伴った強い雨が降るでしょう」と句読点が打ってあって、そのように読み上げてくれれば何のことはないと思う。
 だがそれよりもここは、「天気予報を耳から聞く人のため」に、原稿に「所によっては(、)夕方から、雷を伴った(、)20ミリ程度の強い雨が降るでしょう」とでも(単に語彙を置き直すだけでも)書いてあれば、そのまま淀みなく読み上げても(句読点を全て無視しても)すんなり理解できる筈だ。このような「放送用の文章」を作るとき、目で見るのではなくて耳で聞くのだから、という充分な推敲はなされないのだろうか。少なくとも、最後に読み上げる立場の人は、自分の言葉が相手にどう伝わるか、慎重に吟味して欲しいものである。
 (これは、音楽で言えば、楽譜を音に再現する場合のアーティキュレーションとフレーズの問題である。ここで思い出すのは、ちょっと状況は違うが、バッハの作とされる《八つの小前奏曲とフーガ》と呼ばれるオルガン曲。日本語での単数複数表現の曖昧さもあって、意地悪く考えると、
 《『八つの小前奏曲』と『フーガ』》 なのか
 《八つの『小前奏曲とフーガ』》 なのか、はたまた
 《八つの小『前奏曲とフーガ』》 なのか?
いずれか俄かには決し難いのが面白い。たとえ「前奏曲とフーガ」という楽曲形態があることを知っていても、である。)  日本の政治家の演説下手なことは周知の通りだが、これはやはり、自分がしゃべる内容をあらかじめ「口にする文章」として吟味しないためであろう。原稿棒読みの施政方針演説や質疑応答でも、その肝心の原稿が「見る文章」で綴ってあるから、それを耳から聞いてもサマにならない。そしてその耳から判って貰うための努力を怠っているから、予定原稿のない即興的な発言はさらに悲惨な物になる。
 もっとも典型的な例は、主語−述語の関係すら整理できていない場合である。そこにやたらに現れる自己顕示のためにか一人称代名詞を使った『わたくしは』の大半が、相棒の述語の出現しないままセンテンスの中で葬り去られる。そうでなくても述語が文の最後に位置する日本語は、外国語や手話の同時通訳泣かせであるが、その上これをやられると、全くお手上げである。たとえばこんな具合である。
 『いま問題となっております「小選挙区比例代表制」でありますが、私は、この制度はかつての参議院議員選挙での全国区には金がかかりすぎた。そこでこれを是正しようと言う趣旨で改革がなされたのであります。(フンフン。で?)しかるに、私は(あれさっきの私はどうなった?)、比例区は政党名ではなく個人名で投票するという案を与党側が検討している。これはまさにあの全国区の再現であります。さて、……(??)』
 文部省の手によって進められた「国語改革」の結果、言葉が存在し続けるがそれを書き表していた文字が使用禁止になる、という奇妙な現象が起きている。そのため、しばしば苦笑を誘い、またとまどわざるを得ない場面に遭遇する。まあそれについてはいずれ取り上げるとして、「見る文章」を書くとき、大変難しいのが句読点の打ち方である。多すぎては煩わしいし、少なすぎても文意の読解が困難になる。愛知万博を取り上げた新聞記事にこういうのがあった。「運営費は大変、厳しい状況だが、計画は赤字を出さないことが大前提。」 この『大変』の後の『、』は変だ。これは「運営費は、大変厳しい……」だが、続く文節を見るとむしろ不要だろう。同欄で「万が一赤字が出たら、その時に」と「万が一、赤字が出たら、地方自治体と」のように、同じ表現の中で句読点の有無が分かれているところがあるが、これは統一したい。もっともこの句読点は、書き手によって随分癖が出るもので、例えば平岩弓枝氏の小説など、正直言って大変読みづらい。失礼ながら、シロウトにはデタラメとも思える句読点なのだが、狙いは何であろうか。

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 2000年9月第4週掲載

Teddy●コンサートとマナー(1)
 コンサートでのマナーと言うと、まず聴衆のそれを指すのが普通であるが、ここではステージの上のことに触れてみたい。若い人たちの演奏会でよく見られる現象の一つ……。
 自分で譜面を持って出て来るのはいいが、せっかくお客さんが拍手をしているのに、それを無視して、まず譜面台の上に乗せ、どうかするとゴソゴソ開いたり置き直したりしている。大抵楽器を片手に持っているから、スムースには行かない。何となく気をそらされて拍手が静まった頃になって、やっと片付いてお辞儀をするから、お客はもう一度パラパラとやらざるを得ない。最初のシラケである。
 さて、演奏が一段落してお辞儀をし、拍手を受けたらサッサと引っ込めばいいのに、今度はまた広げた楽譜をゴソゴソとまとめ、手に取ってから退場する。拍手する方は付き合いきれないからステージ帰路半ばには止んでしまって、そこでまたシラケる。
 かくて、自ら作り出した雰囲気に自ら押し潰されて、結局不満足なステージになってしまう。
 多分これは、学校での試験なんかで習慣付けされてしまっているのだろう。その時は勿論拍手など無く、雰囲気も決して好意的で無いから、なるべく客(試験官)の存在を無視して、かつ自らを落ち着かせるためにも、殊更緩慢に動作する。片付けは自分で。さらに言うなら、笑顔など見せるのはとんでもない事だろう。だから全体の雰囲気は、よく言えば慎ましやか、悪く言えば無愛想である。
 だが、人前で演奏をしようとなれば、如何にして聴衆を味方にするか、充分に研究して振舞って然るべきだろう。聴衆の期待を裏切らぬ美しく滑らかな動作、音楽の楽しさを共有する象徴としての豊かな表情は、必要不可欠である。

 ここで実際にステージ裏にあって経験した二つの典型的な例を挙げよう。
 或る優秀な若手ヴァイオリニストのリサイタルでのこと。
 たまたまその日は彼女にとって万全のコンディションではなく、最後で若干の目立たぬミスがあった。それが余程自身にとってショックであったのだろうか、充分に満足した聴衆の大きな拍手を聞き流して、不機嫌さもあらわにさっさと楽屋に引き上げてしまったのである。驚いて声をかけてはみたが、結局二度とステージに戻らなかった彼女に対して、聴衆はなんと思ったであろうか。
 片やニューヨークで活躍している女性ばかりのピアノ・トリオの場合。
 その艶な容姿とは裏腹な豪快な弾きっぷりで客席を存分に引きつけた後、如何に楽しい仕事をやり遂げたかを誇示するごとく、満面に笑みをたたえ、「獅子の髪洗い」を思わせるように長髪を波打たせて、威勢のいいお辞儀をすると、もう聴衆はすっかり嬉しくなってヤンヤの喝采。帰途につく笑顔の群れが、その夜のコンサートに参加出来た幸せを如実に物語っていたのである。
 大げさに言えば演奏家たるもの、コンサートを発表してから、当日の聴衆が自宅に帰りつくまでを念頭に置いて、よろず振舞って欲しいものである。

(月刊『中部経済界』2000年9月号寄稿文より)


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 2000年9月第5週掲載

Teddy ●コンサートとマナー(2)

 コンサートは聴衆が作るもの
 演奏会場の座席に身を沈めて開演を静かに待つ間の、期待を伴った快い緊張感が好きだ。CD一枚より高額の料金を投資し「一期一会」の生演奏を満喫しようと出向いた以上、そのひとときを価値あらしめようとするのは当然である。
 しかるに、中にはオシャベリに夢中で、「予鈴」が鳴り、客席が暗くステージが明るくなっても、そして演奏者が登場してもなお、拍手をしながらまだ声高に喋り続ける手合いある。そして曲間で演奏者が退場すればたちまち口を開く。要は茶の間のテレビに向かっている感覚なのであろうが、何のために今、自分が、人々がそこに居るのか、全く理解していないのが不思議である。余韻を楽しむとか期待に胸をふくらませるということは無いのだろうか。
 余韻と云えば、演奏が終わった途端信じ難く早く反応する拍手もまた、折角の気分をブチ壊す。終止の何小節も前から今や遅しと待ち構えているのであろうが、ご苦労なことだ。しかしながら、最後の響きがホール空間から楽器の中に戻るのを確かめた演奏者自身が緊張を解かない限り、音楽は終わっていない。聴くものは、初めてそこで解放されるのである。反応を起すのはそれからであろう。

 聴いてみなくちゃわからない
 コンサートを「売る」ことの難しさは、その良さが「終わってみなければ判らない」ところにあると言えよう。食べ物にしても他人が「美味しい」と推薦しても、所詮は自分の舌が判断を下すはずで「食べてみなければ判らない」。この「……みなければ」がポイントで、これはひとえに各人の好奇心であり勇気に依存するのみだ。
 先日『チェコ室内楽フェスティヴァル』を聴いた(8月26・27日。スタジオ・ルンデ)。出演したのは初来日のモラヴィア弦楽四重奏団、プログラムは六人のチェコの作曲家の作品。この「マイナー」な組合せのため聴衆の数は極めて少なかったが、驚く程の集中力のもとになされた演奏は実に素晴らしく、あらためて世界は広いと感じ入った。
 強い緊張感に支配された会場の空気は演奏者をいやがうえにも高揚させ、最後のヴィチェスラフ・ノヴァークのピアノ五重奏曲では、ピアニスト(藤井裕子)が感動のあまり涙を浮かべつつ演奏していたのが印象的であった。そして当日会場に足を運び共にコンサートを造りあげた聴衆に、心から敬意を表する。

(月刊『中部経済界』2000年10月号寄稿文より)


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