Weekly Spot Back Number
March 2000


27  拍手考(6) 「自然な拍手」 3月 6日版(第2週掲載)
28  拍手考(7) 「拍手をしない嫌味な人」 3月13日版(第3週掲載)
29  拍手考(8) 「ウーン、エエナァー」 3月20日版(第4週掲載)
30  拍手考(bis) 3月27日版(第5週掲載)



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 2000年3月第2週掲載

●『拍手』考(6)
Teddy  ここまで「拍手」のことを挙げてきたら、長野オリンピックの時のもう一つの新聞コラム を思い出しました。やはりここに《最高だった『自然な拍手』》と題されたそれを、ご紹介したいと思います。

 「自然に勝るパワーはない」そう書ったのは、確かレゲエの巨人、故ボブ・マーレーだったが、この五輪を取材しつつ、何度も、至言だなあ、とかみしめた。が、言おうとしているのは、雪で順延になり続けたアルペン競技のことでも、ジャンプ競技で日本選手が風に、雪にもてあそばれ、ハラハラさせられた、ということでもない。
 拍手、についてである。
 開会式の時だ。直前、会場で、司会者が、こんなふうに観客に呼び掛けた。「みなさん、お寒いでしょうけど、きれいな拍手にするために、拍手は手袋を脱いでお願いします」
 違和感を禁じ得なかった。「きれいな」って?テレビ視聴者の耳に、そう聞こえるように?
 幾日か、流れ、「あのジャンプ」の朝。白馬。ランディングバーンの周囲を三万を超える観衆が埋める。もう二本自。三番手グループ。原田雅彦選手が、飛んだ。一本目の「失速」を超え。137メートル。あの瞬間の拍手――。
 あれを、どう書けばいいのか。少なくとも「きれいな」なんてもんじゃない。だれが頼んだのでもないが、うれしくて、祝福したくて、誇らしくて、泣きながら、みんな「自然」に、手をたたいた。
 それが何万と重なり、口笛や叫び声が溶け合って、あの時、あの空間を満たした。それに、どれほど心を動かされたことか。
 当然のことだけど、作れるものは、作れないものに勝でない。「演出」は「自然」に、「きれいな拍手」は、あの「白馬の拍手」に……。
 五輪は「俗」な包み紙に包まれている。でも、芯(しん)のところが「神聖」なのだ。

 このコラム氏の言う「自然な拍手」こそ、最も望まれるものであり、極めて率直な感動の表現で、何人もそれを制することは出来ないでしょう。コンサートの関して、しかし一方では、こういう解釈もあるようです。別の新聞コラムから。

 (前略)メーンプログラムは、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。哲学者(シノーポリ)は曲が進むにつれて、指揮台に仁王立ちしたり、狭い台上で身を躍らせたり。そうかと思えば、身を縮めて弦に叙情を求めたりと聴衆を魅了し続けました。
 感動の頂点は第三楽章と終楽章にやってきました。
 激しい第三楽章が終わると自然に場内から拍手が沸き起こったのですが、こんな事は珍しいと思うと同時に、聴衆の皆さんも私も熱い興奮の中にいたとおいうことにほかなりません。
 終楽章は、弦が嘆くように悲しげに旋律を歌います。フレーズをつなぐ際の休止の間というか、僅かな沈黙がとても効果的で、まさに固唾を飲んで聴いていました。チュロとコントラバスの沈痛な音が静かに響いて終曲。哲学者の棒が余韻を確かめるように一点に留まること数秒、場内も水を打ったように再び沈黙が支配しました。この沈黙の時間は無限に続くような感じさえして緊張しました。(後略)

 まさに、問題のチャイコフスキー現象ですが、意地悪く推量すれば、果たして本当に感動のあまり、曲の途中と承知でなおかつ拍手せねばならなかったのか? それともただ単に「ジャーン」と派手に終止和音が響いたから、条件反射的に叩いた人が大半ではなかったか?
 かつてあるオーケストラの演奏会で体験したこと。チャイコフスキー・プロで、前半がヴァイオリン協奏曲、後半が「悲愴」。協奏曲の楽章間で拍手があって休憩。隣席の男性二人の会話「書イタル曲ゼンブオワッタケド、アト、ナニヤルンダ?」
 そう云えば、かのヘルマン・プライが、岩城宏之指揮オーケストラ・アンサンブル金沢をバックにシューベルトを歌ったとき「音楽の流れがあるから、曲間の拍手は無用」と前置きしたっけ。
 とかく難しいのが「感情表現」。しかしその心ない発露は、すべてを台無しにしてしまうことを、お互い肝に銘じたいものです。

 『拍手』考(1)    『拍手』考(2)

 『拍手』考(3)    『拍手』考(4)    『拍手』考(5)

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 2000年3月第3週掲載

●『拍手』考(7)
Teddy
 団伊玖磨氏の「パイプのけむり」ではありませんが、この『拍手』考、続続、もう一つ、とどこまでも続きそうですが、まあ諦めてもう少しおつき合いください。

 さて、先に「嫌味な拍手をする人」のことを挙げましたが、今度は「拍手をしない嫌味な人」のケースを……。
 その人はよほど「音楽会がすき」だとみえて、随分あちこちの会場に現れます。しかし座席に座ると、深々腕を組んで顎を埋めて目を閉じ、そのままの姿勢をかたくなに続けます――演奏者の登場も、曲の終止も、そしてコンサートの終了をも全く無視して、彼は、深々と組んだ腕の間に顎を埋めて目を閉じ続けるのです。小さな会場では、演奏者の視界に入るところ、またはステージへの出入りにその面前を通る位置に陣取っても、そのコンサートを無視し続ける姿勢はかわりません。これはもう、演奏者にとっても周囲の聴衆にとっても嫌み以外の何ものでもありません。
 では、演奏会の中身がよほどお気に召さないのかといえば、後で聞けば結構楽しんでいるようで、何故そんな態度をとるのかご本人に言わせれば(コンサートに対する感想の)「表現の仕方は個人の自由」だそうですが、そのひと個人のためにコンサートがあるのではない以上、他の人たちを興醒めさせるような嫌味な態度をとることは許されるものではないでしょう。
 この人の場合、さらに許せないのは、「個人の自由」を標榜するにしては、他人に干渉するのです。音楽に合わせて身体を動かしている人を見つければ「目障りだ」と罵倒し、うっかり咳でもすれば「病人は来るな!」と怒鳴りつける。いわれた本人はもとより、周囲の第三者もなんともいやな気分になってしまうのです。
 彼のような人は、自分の意中のアーティストを自分で雇って、気に入らない客が紛れ込むのを避けるために非公開として、心置きなく「勝手に弾かせて」おけばよさそうなものですが、まずそうは絶対にしないだろう。つまり、言ってみれば他人への嫌がらせを楽しんでいる「愉快犯」にほかならないとしか考えられません。

 随分昔の話ですが、ある新聞が「音楽会のマナー」について取り上げたことがあります。「クラシックのコンサートは、お行儀よくしなければならないのは何故か?」。結論(?)として某音大教授の言が紹介されていました。曰く『演奏者が何ヶ月も練習してきたものを発表しているのだから、静かに聞いていないと失礼に当たる』云々。
 何ともしまりの特集だったのを記憶していますが、この種の議論はいわばマナー以前の問題。そこへ『聴きに来て』いるなら『聴き入れば』いい。結果は自ずと知れている。それだけです。聴きに来ていない、場違いな存在が問題になるのでは?
 早すぎる拍手だってそうです。その音楽に本当に聴き入っていて、感銘を受け、演奏者と音楽を共有していたら、そして余韻も存分に味わっているなら、演奏者が緊張を解くより早く我に返ることができるだろうか。すべての音が静まって訪れた深い静寂――それを破って、聴衆が呪縛から解放されるプロセスは、pianissimo の andante に始まり、accelerando し molto crescendo 、そして fortissimo の fertmata に到達するのではないでしょうか。

『拍手』考(1)  『拍手』考(2)  『拍手』考(3)
『拍手』考(4)  『拍手』考(5)  『拍手』考(6)

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 2000年3月第4週掲載

●『拍手』考(8)
Teddy
 あまりにも一つの話題に長い時間を割き過ぎました。
 で、わたしの経験した「拍手」の一つを紹介して、ひとまず打ち切るとしましょう。

 ある地方金融機関の主催する小さなコンサートのお世話をするようになって、もう足かけ10年経ちました。ここの主催者がこの催しを思い立ったきっかけは、それはそれで大変面白いものがあるのですが、今は本題ではないので省略します。要は、そこの「集会室」のようなスペースを使って、春秋二度室内楽のコンサートを行っているのです。地域住民と顧客へのサービスの意味で、ウィークデイの午後二回公演、各回200名づつの無料招待なのですが、主催者からの注文「聴衆の大半は、多分日頃クラシック音楽に馴染みのない人たちだから、良いものを聴かせて欲しい」に応えて、第1回の「篠崎史子、佐久間由美子、菅野博文トリオ」以来、厳選した室内楽を提供しています。それはさておき……当初は、楽章間の拍手もありましたが、回を重ねるに従って、音楽の構成や演奏者の気配で察っして拍手のタイミングも堂に入ってきました。それもさておき……。
 ある回、山崎伸子のゼフィルス弦楽四重奏団を招いたときのこと。
 コンサートが終わり、お客様がみんな引き上げた――と、おもいきや、最前列にひとり、白髪の男性が腰を下ろしたまま考え込んでいるではありませんか。もしや気分でも悪いのかと、おそるおそる近づいて声をかけると、やおら首をもたげた老人の一言。
 「ウーン、エエナァー」
 これぞまさしく、演奏家にとっても、主催者にとっても、そして企画したものにとっても、万雷の拍手に勝るとも劣らぬ賛辞でありました。

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 2000年3月第5週掲載

●『拍手』考(bis)
Teddy
 先回で「拍手考」は一旦打ち止めにしようと思ったのですが、大変熱心は投稿がありましたので、ご紹介して臨時便とします。ご容赦を。
 
 「拍手」考たいへん興味深く読ませていただきました。やはり大事なのは形式でもない、興奮でもない、「感動」なのだと思います。「日本人は」式の十把ひとからげ的言い方は好きではありあませんが、この国の人の感情表現が屈折している場合が多いのは間違いなさそうです。スタンディング・オヴェイションなど恥ずかしくて出来ない奥床しい国民性。
 先日名古屋に赴き朝比奈さんのベートーヴェンを聴きましたが、東京、大阪ならオーケストラが引っ込んでも拍手が続き、最低二回は朝比奈さんへの「一般参賀」状態になるところ、このときはオーケストラがいる状態で朝比奈さんの再登場は一回、オーケストラが引き上げ出したら拍手は終わりでした。
 いかにもアンコール目当て風なのもイヤでしたが、なんともクールで日本的といえましょう。肯定派はたぶん「朝比奈さんもお歳だかららあまり何回も呼び出すのは失礼だ」とおっしゃるでしょうが、呼び出さない方が失礼なんですけどね。
 あっと、ここであの演奏会の後味をあげつらうのは本意ではありませんでした。ここで言いたかったのは感情表現ということです。最近の演奏家の大多数は洋の東西を問わずこれが希薄ではないでしょうか。そしてそのことがクラシック音楽をつまらなくしているように思えるのです。
 私は自他ともに認める「オタク」ですので、戦前の演奏家の録音は頻繁に聴きます。メンゲルベルクの演奏の面白いこと。こんな演奏、今の音大でやったらたちまち放校でしょうが、どうせ生の演奏会でお金を払うなら機械では絶対できない個性的なものを聴きたいというのは人情です。
 メンゲルベルクが出ましたから昔の演奏様式のことをもう一ついえば弦楽器のポルタメントがあります。昔の演奏だと上向、下降いずれのポルタメントも臆面もなく使うのですが、今は禁じ手です。エルガーの「愛の挨拶」にはヴァイオリン・パートに作曲者自身のものと推定される(彼はヴァイオリニストでした)指使いが記されていますがこの通り弾くと必然的にポルタメントになるところがあります。
 ところが今のヴァイオリニストはたいていこの指示を無視。お陰でこの名曲、エルガーのフィアンセに対する熱烈な愛の告白は(フィアンセたるアリスの家族は猛反対)、健全なお見合いに様変わりしてしまうのです。これでは作曲者に忠実にあるべしというドグマさえおかすことにはなりませんか。
 ということで最近のというか第二次大戦後のクラシック音楽演奏はなぜつまらないかというテーマで論ずると、逆に面白い演奏とは何か、生演奏の意義はどこにあるのかといったことが見えてくるような気がするのですが、如何でしょう。
【M. A. 会社員。東京】
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