Weekly Spot Back Number
June 2000


40  分別収集(1) 6月 5日版(第2週掲載)
41  選挙〜三つの疑問 6月12日版(第3週掲載)
42  室内楽考(1) 6月19日版(第4週掲載)
43  室内楽考(2) 6月26日版(第5週掲載)



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2000年6月第2週掲載

Teddy●分別収集(1)
 言うまでもなく『家庭ゴミ』の話です。
 去る5月30日夜のNHK−TV「クローズアップ現代」“プラスティックごみの捨て方”という放送を見て、その馬鹿馬鹿しさに、つくづく「日本のお役所仕事」の虚しさを感じさせられました。日本古来の諺中の傑作『猫を追うより皿を引け』的な発想が、なぜ出て来ないのかしらん?
 消費者=一般市民が日常生活を営む中で、好むと好まざるとにかかわらず押しつけられる様々な素材・形状のプラスティック容器を、『自治体ごとに違う基準』(これが断じて納得出来ない!)によって細々と分類を指定された仕分け方法に準じて、消費者側が「分別」しなければならない。ドダイが作る方が手前勝手に作ったものを持たされて、一体シロウトの誰が、外観を目で見ただけで素材の成分や種類を知り、(おまけにお役所毎に勝手に決めた)分類基準に合わせて見事に仕分けられるというのですか(それも自宅と勤務先で、または転居先毎に違う方法で対応しなければならない事態が起こっている!)。なんたる不合理さ極みよ。
 その上なんと、出されたゴミ袋の中身をご丁寧に一々調べて回って、『不的確なもの』にはあらかじめ用意したカラフルに印刷されたステッカー(!)を貼って「収集しないぞ」と宣告する係員が活躍しているとは、実にご念のいった、随分ムダ金(それも税金! だから簡単に出来るんでしょうけれど)のかかった『イジメ』ですね。
 もし、本気でリサイクルを考えた完璧な分別収集をしたかったら、日本国中統一の基準を作って(当たり前のこった)、各メーカーにプラスティック容器を作る時に、一定基準に基づいた記号なり符号なりを印刷または刻印させた方が早いじゃないですかナ? そうすれば税金もムダに使わず、市民も何の雑作もなく快適に『分別』に協力できるんじゃァないですか? それがどうして出来ないのか、どうしても市民が一切を負担せねばならないのか、しっかり我々を説得してみてください、お役人サマ方よ。

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 2000年6月第3週掲載

Teddy●選挙〜三つの疑問
 衆議院議員の選挙が告示された。小渕首相から森首相への移行が不透明なことをはじめ、様々な要因を孕んでの選挙である。
 もっとも、議員さん方のちゃっかり具合は相当なもので、天皇までダシに使って何とかカンとか理屈を付け、たった2日で15億円余を食い逃げである。しかも我々の常識とは一月食い違っているのも摩訶不思議、何で6月に足が懸かったからと言って下半期の手当が貰えるのだろう。誰も(共産党さえ)何とも言わずポケットにしまいこんで知らぬ顔の半兵衛を決め込むこのご都合主義! 負けますねえ、もう。無い無い筈の予算が、いとも簡単に出てくる不思議さ。「たった2日では気がひける」と皆さんで返上すれば、福祉にだろうが教育にだろうが、何か一つの「懸案の」事業の足しになろうものを。

 さて、その選挙だが、どうも納得のゆきかねることが多い中でも代表的なもの三つ。

◆その1:選挙協定
 まず選挙をする前から、連立内閣を組む事が決まっているオカシサ。
 ご破算で願いましては、とやって、結果過半数に達しなかったら工作が始まって然るべきだろう。
 不合理な協定の結果、ハナから「選挙区はA党で、代わりに比例はB党を」とは、およそ選挙民を愚弄している。場合によっては、まるで、レストランに来た菜食主義の客に「まあ何でもいいから肉と魚を食え。そうしたらお土産に野菜サラダの折詰めをやるゾ」と言っているに等しい事態となる。
 政策よりも何よりも「数」「金」だけが代議士サンたちの拠りどころであって欲しくはない。

◆その2:世襲
 世襲を強烈に望んでいるのは、ご本人よりもむしろ「支持者」ではないだろうか。一旦握った既得権(よほどいいことが付いて回るらしい)をどうでも他に渡すまいと必死になって二世や家族を担ぎ出す。ご本人の資質など度外視し、義理と人情にからめて祭り上げるのは、第三者には笑止の限りである。真に優れた資質の所有者で、自身に先人と同じ道を歩む強い意志があるのならば、むしろ自分で切り開いて行きたいのではないだろうか。
 日本の封建時代のような、或いは天皇制のような、頭領世襲制度は、いま社会主義国である朝鮮人民民主主義共和国に健在なのはなんとも驚きであるが、最近シリアでも、ミエミエの憲法改正まで行ってまで大統領の世襲を行おうとしているのには呆れ果てる。
 いわゆる芸事や職人の世界では、いまも世襲制度が受け継がれているが、それは厳しい修行が伴うものであり、他人の思惑によって安定維持されているわけではない。そこでは、力足らずとあれば容赦なく排除されるのだ。

◆その3:みそぎ
 選挙の度に気勢を上げる「みそぎ」陣営。だがこれは我田引水、ナンセンスの最たるものである。本来罪や穢れのある身で神事に携わるときに、河や海で身を清める事を言う「みそぎ」は、純粋に「個人的な行」だ。被告人であったり有罪判決を受けた身で恬として恥じざる方々が、世襲同様の利権や義理の尻押しで持ち上げられた「自分の地盤」での選挙が何の「みそぎ」ぞ。これまたご都合主義の極致である。
 本当に政治を大事にする市民なら「泣いて馬謖を斬る」決断を持つべきであろう。

 ついでながら、自民党陣営からチラホラ「小渕首相の弔い合戦」なる言葉が聞かれるが、小渕さんは選挙期間中に死んだのでもなければ、ましてや誰かに「殺された」訳けでもない。これも「死んだ人のへの同情を当て込んだお涙チョーダイ作戦」に使っているのが明白で、デタラメである。いや、もし本気で言っているのだとしたら、「国語」の勉強をし直して貰いたい。
 と、ついでに思い出したのが、某カルト集団のトップが逮捕されたときの幹部の言葉「教団にとって万死に値する」とは一体なんだね? 話の文脈から察するところ、「これでは教団全体に死ねと言われたも同然」と受け取れるが、本来は「罪を認めその重さは幾度死んでも償えないことを痛感する」意であろう。
 さらに……始まったばかりの「選挙戦」で各党首脳・候補者の「第一声」なるものを聞いていると、やたらと長いセンテンスが途中から幾重にもねじ曲がって行って、主語・述語の関係が全然つかめず、結局何を言っているのだかちっとも判らない絶叫ばかりなのも困ったものだ。

 トンと話がそれてしまった感じだが、言葉の乱れが全ての乱れの原因ではないかと、変に納得せざるを得ない。

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 2000年6月第4週掲載

Teddy●室内楽考(1)

 先日、日本の或る人気クヮルテットの演奏会で、そのステージ・リハーサルを垣間見る機会を得た。
 日本ではまだ欧米のような「専業」クヮルテットが存在しない。当然このグループも言うなれば「寄せ集め」である。ただその名のクヮルテットとしては固定したメンバーで活動している。彼等はそれぞれに優れた演奏家であり、日常はソリストとしてあるいはオーケストラの主席を占めて活発に活動している。
 さて、そのリハーサル風景であるが、本番前の所謂「ゲネプロ」ともなれば、通常ハタで観ていても快い緊張感が伝わってくるはずのものが、なにかひどく集中力に欠けて感じられたのが意外であった。彼等は勿論それぞれが充分な力量の持ち主で、流れ出てくる音そのものにソツはないのだが、そこには、四人で一つの音楽を作り上げようとするよりも、(失礼ながら)なんとなく「合わせて、一丁上がり」的な雰囲気がつきまとうのである。和気藹々として仲良く笑い声が絶えないのを、果たして善しとすべきか。
 ふと思い浮かべたのが、先年活動を停止したアメリカのラサール弦楽四重奏団のことである。特に、彼等が始めてルンデに来演した時(開館した1981年の6月)は、来場してから綿密なリハーサル、そして素晴らしい本番が終わるまで、それこそ触れば切れそうなピリピリした雰囲気が付き纏っていた。しかし終演後聴衆のサインの求めに応ずるためロビーに現れてからは、翌日の出立まで、実に気さくなフツーの人たちであった。その後繰り返しルンデにやって来て、随分親しく付き合わせて貰ったが、リハーサルを経て本番を終えるまでの雰囲気は、いつも変わることがなかった。
 また、同じ開館の年の12月にやって来たハンガリーの名門バルトーク弦楽四重奏団(その後来日の度にルンデのステージに立って、それはいまも続いている)も、メンバーはそれぞれに人間的に非常に魅力があり、また実に「かわいい」人たちなのだが、一旦ステージに上がるとそのリハーサルは真剣を極め、しばしば激論を戦わしていた(それはまた、彼等の行う室内楽公開レッスンに於いても同様の真剣さであった)。なかでも特に印象に残っている場面の一つは、バルトークの四重奏曲(それこそこの曲は彼等の最も得意とするのレパートリーであり、今までに幾たび演奏してきたか判らないものである)の練習で、四人の中央にメトロノームを置いて、慎重に重要なパッセージの確認をしていたことである。
 それらには、四人が一体となる「専業」クヮルテットとして活動して行くことの厳しさを、如実に示していると感じさせられ、それでこそ、その演奏があの深い感動をもたらすものであると納得させられたのであった。(この項、続く)

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 2000年6月第5週掲載

Teddy●室内楽考(2) (承前)
 さて、欧米では、ピアノ・トリオや弦楽四重奏を専業とするグループの活動が立派に成り立っているが、日本では、一都市に10ものプロ・オーケストラが存在する一方で、全国区で活動する専業室内楽グループは無い。ルンデを始めてこの方「どうも日本では三人から30人位までのアンサンブルがウケない」思いはつのるばかりである。ピアノ・リサイタル、有名ソリストと「伴奏者」のコンサート、または大編成のオーケストラでないと、なかなか陽が当たらないのだ。勢い室内楽の分野では「クヮルテットはヴァイオリン二人にヴィオラとチェロがいれば出来るもの」という認識が一般的になり、いうなればソリストやオケマンの「余技」扱いで、そう言う構成の方がむしろ喜ばれ「評価」される傾向にある。
 もっとも悲観的な面ばかりではなく、やや明るい兆しも無いわけではない。国外で活動していた人たちが帰国して音大の教授陣に加わるようになり、やっと日本でも本格的な室内楽の講座が開かれ始めた。学生達も、これまでのソリスト志向一本やりの勉強から、アンサンブルにも積極的に目を向けるようになったのだ。これはルンデで隔年に行われるバルトーク弦楽四重奏団の公開レッスンや、その後のコンサートでの演奏ぶりを見ても明らかである。だがこの傾向も、最近では思わぬ障害に遭っていると聞いた。例えばクヮルテットの場合、メンバー四人での練習スケジュールが、個人的な都合優先でなかなかまとまらないというのである。まだまだ目的意識が低いと言わざるを得ない。
 それはさておき、前述の(何か麻雀みたいだが)「四人集まれば出来る」からだんだん「四人集めて、やる」になり、最近では随分怪しげな「室内楽コンサート」が横行している。例えば3−4人の弦楽器奏者に複数のピアニストを配したものなどだ。既成のオーケストラに外部からソリストを迎えて行う「協奏曲」と、この手の「室内楽」としての四重奏・五重奏は、随分内容の次元が違うと思うのだが、興行上のリスクを回避するためや、もっと積極的には収益を上げる手段として好んで実施されているようだ。そして多くの場合、アンサンブルとして磨き上げがどの程度なされているか、時間的に観て疑問に思わざるを得ない。これでは音楽としての室内楽への評価は上がるとは思えない。(この項続く)


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