Weekly Spot Back Number
July 2000


44  室内楽考(3) 7月 3日版(第1週掲載)
45  要は、『夢』『愛情』の問題か 7月10日版(第2週掲載)
46  要は、『夢』『愛情』の問題か・続 7月17日版(第3週掲載)
47  挙げ句の果て…… 7月24日版(第4週掲載)
48  そして街は汚くなった…… 7月31日版(第5週掲載)



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 2000年7月第1週掲載

Teddy●室内楽考(3) 【承前】
 オーケストラを油絵や水彩画にたとえるなら、室内楽は(特に弦楽四重奏などは)水墨画の世界ともいえるだろう。写真にしても、カラーより白黒の方が、より味わい深い印象を与えることが出来るように、緻密に構成された室内楽の演奏は、聴く者の想像力を限りなく刺激して、フルオーケストラ以上の興奮と感動、そして色彩感をも呼び覚ます。そして、そう言った「ハイグレード」な室内楽は、個々の演奏家の精進の上に更にグループとして一つの音楽を目指すための準備に、膨大な時間と労力を必要とする。巷間「合奏」についてよく(いとも簡単に)言われるところの『合わせる』などと云う次元は、全く問題にならないのだ。
 前回ちょっと触れたが、既存の室内楽グループに外部共演者が参加する場合は更に慎重でありたい。それで「ゼニ」の取れるレヴェルの演奏を実現するにはためには、それ相応の幾つもの条件が存在することは言うを待たないであろう。
 この点について、コンサートを企画立案するもの、また主催する者は、聴衆を裏切らないためにも、室内楽の価値を貶めないためにも、真摯に、深く心すべきである。
 ルンデは過去約20年、1000回を超える主催コンサートの内、自らの判断で既成の室内楽グループに共演者を設定したのは、唯3回のみである。いずれの場合もグループは「バルトーク弦楽四重奏団」であったが、彼等は、1981年のルンデ開設以来2〜3年間隔の来日の度にルンデに招き、お互いに充分な意志の疎通は図られており、共演を依頼するに当たっては、当然の事ながら共演者に関する情報を十二分に提供してその「快諾」を得てのことである。また、共演者は演奏家としての実力と実績を持ち(客観的な判断の一助としては然るべきコンクールでの優勝又は上位入賞があり)、充分の語学力に恵まれ(これは同時に海外での研鑽実績を物語る)ていることによりアンサンブルの実践にあっての意見交換の自在度が保証された。また当然の事ながら練習時間を充分とれる日程が確保され、コンサートは、クヮルテットのみによるものと、五重奏を含むプログラムによる複数回が用意され、聴衆の希望・選択が可能であるよう準備した。そして(このようなことを殊更挙げるのも恥ずかしいが)共演者への「チケット・ノルマ」はルンデとして当然の事ながら、全く課してはいない。共演の企画は専ら音楽的な動機からであり、それ以外の何物でもないからだ。しかしこれについては忘れがたい出来事があった。上述のコンサートの一つで、チケットの売れ行きが今ひとつのものがあり、音楽上の友人に、愛好者への紹介を依頼したことがあった。すると彼の知人である当地の高名な某音楽評論家氏に「売れないのなら(共演者に)売って貰えばいいじゃないか」とこともなげに言われたのである。この立場の人にしてこの認識――出演者の「関係者」頼りの「ギリコン」を、何が悲しくてわざわざ企画しなければならないんだ。少なくともルンデは、外来の音楽家と日本人音楽家の共演を計るのは、純粋に、かつ充分に意味のある音楽的動機からであり、それ以外の姑息な考えは毛頭なかったのに、そんな風にしか受け止められないとは……まことに情けないことである。
 ともあれ「室内楽」を標榜するなれば、然るべき「覚悟」をもって取り組んで欲しい、と、演奏者にもプロモーターにも、そして聴衆にも、心から願うものである。この素晴らしいジャンルの真価が、正面から受け止められるように……。

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 2000年7月第2週掲載

Teddy●要は、『夢』『愛情』の問題か
 以前このコラムに『信じられない……』話を書いた。24時間風呂での出産などについてである。今度は「雪印」の乳飲料製品で「事故」が発生したが、ちょっとシロートには理解しにくい製造工程での操業実体が浮かび上がってきた。あの東海村の放射能事件と何処か共通する部分もあるようだ。
 この事件の原因となったであろう作業工程を、新聞などで伺い知る限り、それに携わっていた人たちに共通なことは、信じがたい事だが、果たして自分たちが何を何のために行っているのか、はっきりした自覚が存在していたのか、極めて疑わしいのである。このことは、たとえば、阪神大震災で崩壊した高速道路や、相次ぐ崩落事故の危険性を孕んだ新幹線トンネルなどの施工者にも等しく言えると思う。言うなれば「プロ失格」であることは明白だ。
 我が手で作った乳製品を口にして、健やかに育って行く子等の笑顔を想像する「愛情」、万人の交通の安全は我が双肩に懸かると言う自負に胸躍らせる「夢」、このささやかにして且つ大きな想いなくして、その仕事に携わる何の楽しさがあるのだろうか。
 政治献金の名の下に公然と私的な賄賂を要求し、あるいは国家予算の執行をあたかも自己私有財産の処理の如く利益誘導する政治家、信仰心を金で購わせることに血道を上げるエセ宗教家、無定見かつ放漫な経営の失策を公的資金に尻拭いさせて恥じぬ破廉恥な経営者……そんな奴輩に「愛」だの「夢」だのを説くのは噴飯ものだろう。だが、もっと現実的な個人の日常生活に関与するレヴェルでは、せめてものことに、それを望みたいのだ。
 たとえば、ある「レストラン・デザイナー」の話。この耳慣れない職業を興し、成功を収めているある若者の語ることに、一方ならぬ感銘を受けた。彼は料理の鉄人でもなければ、一枚の図面を引く訳けでもない。ただひたすらレストラン経営の「哲学」を説くのみである、「あなたはいま、何のためにそれをしようとしているのか」と。人間が生きて行くに当たって欠くべからざる「食」、一家団欒のひととき、一日の疲れを癒すささやかな喜び、親しい人との語らい、そして人々の明日への夢をはぐくむ場を提供するという自負を踏まえた経営策をアドヴァイスする。彼の助言に従って、雰囲気作りや社員教育を徹底したオーナーたちは、必ずしも極上の名物料理や豪華な店構えを用意せずとも、立派に成功しているという。
 そして彼の話の最後がまた、印象的であった。ある日彼のもとに或る大手企業からの訪問者があった。そして「絶対はやる店を作ってくれるあなたの力を借りて、我が社も外食産業に進出したい」と。いろいろと依頼者の話を聞いて、つまりは業績の伸び悩んでいる部門の補填になるように、絶対の利益を確保したい、というのが主たる動機であることがわかる。そして「単に金銭的な利益の追求だけを目的として、この業界に踏み込んで欲しくないのです! 夢と愛情無くして、何のレストラン業ぞ。」
 この叫びにも似た願望は、コンサート業界にも当てはまる。(この項続く)

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 2000年7月第3週掲載

Teddy●要は、『夢』『愛情』の問題か・続
 かのバブル華やかなりしころ、「にわかクラシックブーム」が到来した。ただしこの「にわか」ブームは、かなりいびつなものであった。所謂「外タレ」がもてはやされ、好業績にわく企業が競って『冠』を差し出し、テレビのCMのバックグラウンドも盛んに用いられた。大企業が突如「××は若いアーティストを応援しています」と話題の演奏家をチャッカリCMに起用しもした(この企業は、この演奏者をどんな形で応援してきたのか、そして今は?)。いわば作られたブームである。もちろんこの機会に、クラシック音楽に興味を持つ層もいくらか増加したとは思うが。そして、バブルが去れば、当然崩壊して行く……。
 ちょっと話がそれるが、そのバブル当時、アジア地区の音楽マネージャーの集まりが横浜であり、当時取引の多かったエージェントの誘いもあって参加してみた。その会議に席で、フィリピンのマネージャーから、日本の『冠』コンサートのチラシについて面白い発言があった。あまりにも堂々とスポンサー名が躍るものを、自国の企業主には「見せたくない」と言うのである。彼の国では、スポンサー名は表に出てこないか、または極めて慎ましやかであったのが「これに刺激されると困るなァ」とは、彼の冗談交じりの述懐であった。
 さて、そのバブルの頃のブームに目を付けて、大手商社が外国音楽家の招聘事業に参入して来たことがあった。当然のことながら「タレント争奪合戦」が起こり、ギャランティの高騰を生む、その陰でワリを喰うのは邦人アーティスト――という図式が顕著になる。そして、あまり旨味のない商売であることが判り、バブルがはじければ何の未練もなくサッサと撤退する。後に残されたものは……。「単に金銭的な利益の追求だけを目的として、この業界に踏み込んで欲しくない」というあのレストラン業界に対する若者の想いと同じものを、そこに見せつけられる。
 世の不況感をよそに、不思議にコンサート業界は盛っている、と、少なくとも表面的には、見える。だが、実際の入場券の売れ行きは、テレビ・コマーシャルでおなじみとか、ルックスが売りとか、何らかのマスコミ的知名度が高いタレント・アーティストものを除いては(ほかに出演者が「自身で売れる」ものも)、惨憺たるものといいうのが実状では無かろうか。だが、それはそれで現実であるから、主催者も演奏家もそのように受け止めねばならない。問題はその先である。一部の主催者は、多分半ばは体面上からであろうが、公演間近になって、客席の寂しさをおそれるあまり、割引券や招待券(招待というと聞こえはいいが俗に言う「タダケン」である)を乱発し、当日はなんとか枯れ木で山を賑わしているものもある。この手法の拙劣さは、一つには、どんな思いでそのコンサートを企画したのか極めて疑わしいし、また、そのコンサートに対して正当な対価を投じて心待ちにしていた本気の聴衆にたいしてあまりにも心ない仕打ちであるし、さらに、間違いなくコンサートの雰囲気が大変散漫なものになることを意識しないことにある。自ら設定したコンサートの価値を、自ら貶めてまで、何を守ろうとするのだろうか。デパートの食品売場ではあるまいし、売れ残ったから叩き売れ、タダで持ってけ!でもあるまい。
 日常生活に潤いと夢を与えるコンサートを慈しむ環境は、まず当事者(主催者、プロデューサー、マネージメト、そして当の演奏家)が充分心してかかるところから整備されて行く。かの若者のことばを借り、自戒をも込めて言おう「単に金銭的な利益の追求だけを目的として、あるいはメンツのみを掲げて、この業界に踏み込んで欲しくない」と。
 (もっと書きたいこともあったが、筆者が体調を崩して期限遅れになってしまったので、中途半端ながら今回はこれに留めます。お許しあれ。)

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 2000年7月第5週掲載

●そして街は汚くなった……
 最近、家の界隈を歩いていて、何かが以前と違ってしまった印象を受けるようになった。よくよく考えてみると、そうだ、奇妙にそこここにゴミが目立つようになったのだ、と思い当たった。何故だろう。
ゴミ  例えば、この写真のような光景は、つい先頃まではお目にかからなかったものだ。確かに植え込みにジュースの空き缶や紙屑をポイ捨てするヤカラが無くはなかったが、こんな大きなゴミが転がるようなこと無かった。但しこれは、もともとここに捨てられたわけではない。付近のゴミ回収のための集積場から、風に煽られて飛んできたものだ。そして、同じように道路沿いの至る所に散乱するため、何となく街全体が薄汚くなってしまったのである。
 では、なぜそうなったのだろう。どうもゴミ収集の分別・有料化が進められるに従って、起こってきた現象のようである。この「ゴミ収集の分別・有料化」そのものは、環境保護・資源再利用のために必要であることは理解できる。しかしその実施手段が、如何にも稚拙を極め、かつ性急に行われようとしているため混乱が起きていることを、当局者は多分「認識」はしているだろうが、それ以上の手は打とうとしないのだろう。街を掃除して、好意から散らばっているごみを集めていた人も、最終処理には自腹を切らねばならない。それでも街の美観をという公共的な立場から奉仕を続ければ、結果として横着者はますます横着となり、正直者はますますバカをみる思いを強めることになるのだ。
 名古屋市の定めたゴミの分別方法で、一番理解に苦しむのは、『材質』によるのではなくて『用途』や『形状』で仕分けをしろと言っている点である。自分で仕分けをしようとするとき、少しは「考える」頭を持っているつもり人間は、基準が不明であると、もうお手上げである。例えば、以前のこの欄「分別収集(1)」で挙げた「各メーカーにプラスティック容器を作る時に、一定基準に基づいた記号なり符号なりを印刷または刻印させた方が早いじゃない?」は一部実行されているのだが、お役所の決めた分別方法に拠れば、同じ記号が打たれていても分別先の違う(用途が違った!)ものが出てきて役に立たないのだ。もっとも、迷った場合のための膨大な「索引」ができているらしいが、一々そう言う書類と首っ引きでいなければならないとすると、やはりどこかオカシイ。
 並の人間には即答しかねる問題を一つ。淀みなく答えた人には……何も出ないがまあ、ちょっと考えてください。
 あなたが近所の薬局で薬を買ったとする。その薬はプラスティックらしいねじ蓋が付いているガラス瓶で、全体はきれいに印刷されている紙箱に入っている。薬局の人は、小さな紙袋にそれを入れて渡してくれた……。分別に当たっては『容器包装』『商品』『一般可燃ゴミ』『一般不燃ゴミ』等に仕分けしなければならない。そこで質問の始まり。薬屋さんの「紙袋」は? 薬の「外箱」は? 薬瓶の「ふた」は? 「薬瓶」は? 「効能書」は? 丸薬の上に乗っている緩衝剤の「パッド」は? それぞれどの項目に該当するでしょうか、いかが?  (この項「分別収集(2)」に続く)  

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