Weekly Spot Back Number
January 2000


18  「y2k」に考える 1月 3日版(第1週掲載)
19  「演じる」ということ 1月10日版(第2週掲載)
20  「出来ること」と「すること」 1月17日版(第3週掲載)
21  どうなる愛知万博 1月24日版(第4週掲載)
22  『拍手』考(1) 1月31日版(第5週掲載)



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 2000年1月第1週掲載

Teddy ●「y2k」に考える
 コンピュータ問題で不安を抱えた2000年の元日は、どうやら「大きな混乱もなく」無事過ぎたようだ。
 テレビの報道では再三この「大きな混乱もなく」という言葉が使われていたが、詰まるところは「小さな混乱」はあったということだろう。3日付の新聞を見ると「小さな混乱」が多く報じられていた。原子力発電施設、交通機関、消防防災機関、自治体窓口業務、通信業務、等々……。
 ちょっと可笑しく感じたのは、今や盛りのケイタイのメールにも不具合が出たケースだ。最新のメディアの端末に2000年の到来がプログラムされていなかった、とはお笑いである。まさか、どうせほんの2・3年の命が前提だった訳でもあるまいに。コンピュータの普及は、極々最近のことだが、たかだか10年20年先に当然訪れる2000年代のことが視野に入っていなかったとすると、近代科学技術何をか況や、である。
 気の遠くなるような昔々の出来事を宇宙の果てに探りながら、足下の地球についての問題は一向に解決できず、5年10年先のことでアタフタするとは、ちょっと情けない気がする。
 ところで、その不具合を起こしたケイタイのことだが、NTTが早速新聞にお詫び広告を出していたが、作ったヒトはどうしているのだろう。そんなお粗末なプログラミングを許容したメーカー側の責任は? これは先の新幹線トンネル問題でもそうだったが、精々トンカチでたたいて回ることしかできないJRを責めるよりも、どうやって作って、どういう経年変化の起こる可能性があるかを熟知している建設作業責任者に、問題のありそうな箇所を指摘させたら良さそうなものだが、またそんなに簡単に劣化するような工事をして恬として恥じない姿勢を追求してもよさそうだが、一向にその気配がない。PL法というのがあった筈だが。
 このことは、最近のゴミ問題でも言える。消費者にドウセイ、コウセイと指図するより、まず、各製造メーカーに、問題になりそうなゴミになるもの作らせなければいいではないか。 昔から言うではないか「猫を追うより、皿を引け」と。


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 2000年1月第2週掲載

●「演じる」ということ Teddy
 このごろ、特に若い人たちのリサイタルを聴いて、多くの場合等しく感じることがある――彼等は一体誰に対して演奏しているのだろうか、と。
 甚だ高飛車な申し様で恐縮だが、「弾いて=play」はいるが「演奏して=perform」はいないように感じられて仕方がない。もっともこれは、聴き手の側にも充分責任があるのであって、一流といわれる人たちの演奏にしても、それが確かに受け取られているかどうかは、保証の限りではない。しかし、兎に角ステージに出て「演奏」するからには、聴衆に聴かせるためであるに違いなかろう。決して自分の指の筋肉トレーニングの成果を確かめるのではあるまい。などと考えているとき、テレビで落語家の桂文珍師の話を聞いて、妙に共感を覚えてしまった。
 彼は落語を定義して「自己処理完結型」の芸術であるという。そしてそこには「客の充分な反応があって」の事という前提が付随するとも言う。彼は小さいときから落語に興味を持ち、長じてアマチュアとして自らも演じ、そして桂文枝の高座に接してプロを意識し入門する。ところが、意気揚々として上がったプロとしての高座は、アマチュア時代ほど客が反応してくれない。そして彼は卒然として気付くのである――プロの高座への客はお金を払っている! アマチュア時代は「仲間内にオモロイヤツがいる」で笑ってくれていたのだ、と。
 また、言う。落語の舞台には道具もなく、自分も扮装も化粧もしない。ただ語り口のみで、お客の頭の中にあらゆる世界を描き出しもらわねばならない、と。そしてそれを可能にするのが「芸」であるが、同時にお客にもそれを「理解する用意」ができていなければならない。と。桂文枝は彼に言ったそうである、「話芸とは、タライの水に指で字ィ書くようなもんや。書いた後からすぐ消える」、だがお客の心の中には深い味わいが残る。そして同じ事を二度やれと言われても出来ない。「一期一会の芸」なのだ、とも。
 筆者も若かりしころ新宿の末広亭や上野の鈴本などに潜り込んで話芸を楽しんだものであった。例えばあの志ん生が廓噺などすると、高座にはツルッ禿の彼しか居ないのに。櫛笄を飾り立てた花魁が、百目蝋燭で明々と照らし出された座敷に君臨し、禿・幇間が居流れる様がありありと目に浮かんだ驚きは、不思議なくらい鮮明に記憶に残っている
 コンサートの世界も、まさしくそれである。演奏者はその音楽の背景と、語られるべき内容を精魂込めて描き出さなければならない。そして受け手も、それに相応しい準備をしなければならないのだ。
 レストランのシェフは、その料理の神髄を理解してくれる客がその日一人でもいるかどうかは関係なく、腕を振るい続けるのである。それがプロの世界なのだ。


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 2000年1月第3週掲載

●「出来ること」と「すること」 Teddy
 エレクトロニクスの技術が発展するにつれて、昔は夢でしか無かったことが次々と実現されて来た。それはそれで素晴らしいとは思うが、果たしてそうまですべきだろうかと思うことも多々ある。技術依存が過度に過ぎると思われるものから、人間としての尊厳に係わるものまで、様々な問題が起きている。
 前者の一つに、自動車の運転制御がある。スピードの出し過ぎや、先行車両との距離の接近を監視制御する技術などがそれである。もちろんそれが適切に作動することが100%保証されれば、事故の減少には繋がるだろうけれど、一方で運転者の「自覚」についてはどうだろう。人間にミスがあるように、機械にもミスはつきものである。ハイテク技術の結晶である筈の宇宙ロケットの打ち上げ失敗や、原子力関係施設や航空機の事故などが、それを如実に物語っている。「科学技術」への過度の依存は、決して許されるべきではない。人間が最終責任を負うことによって、人間社会が成立するのだ。
 卑近な例を一つ採れば……携帯電話でテレビが見える! これは確かに「可能」な技術だ。しかしそれは果たして「必要」なのだろうか。そうなることによって引き起こされる様々なトラブルが、否応なしに目に浮ぶ。現実問題として――携帯電話で通話しながら車を運転することは望ましくない、とは誰しも承知している筈である。しかしその現象は跡を絶たない。先日も、併走する乗用車のドライヴァーは毛皮のコートに身を包んだ若い女性で、左手でケイタイを耳に当て、楽しそうに会話し、そして開け放った運転席の窓からは、ペットの子犬が身を乗り出している……。おお、神よ、その行く手に遭遇するであろう人々と彼女を守らせ給え! ナヴィゲーション・システムとそれに付随するテレビ機能でも恐ろしいのに……。
 後者については、クローン技術であり、遺伝子操作もそれである。ヒトのクローン、修正された遺伝子を持つヒト――それらを創り出すことは「可能」であろう。しかし、それが将来的にどんな結果を招来するか、これは並の予想をはるかに超える結果を引き起こすだろう。今地球を覆っている環境問題が、その最もいい先例である。
 人間は、人間として為すべきこと、成し遂げることが可能であることまで、「機械」に譲るべきではない。人間が人間として生きて行く価値と意味はどこにあるのか、今こそしっかり見極めなければならないと思う。
 昨今のインターネットに関する様々な不祥事を省みる時、「出来る」=「する」という極めて短絡的な発想が、如何に人間社会を害しているか、真剣に反省する必要が求められている。


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 2000年1月第4週掲載

●どうなる愛知万博 Teddy
 2005年愛知県で催されることになっている「万博」についても、かなりゴタゴタしてきた折りも折り、『吉野川可動堰』問題に対する住民投票の結果が圧倒的多数で「反対」と出て、「土建日本」の体質が厳しく問い直されようとしている。
 万博騒動につけて思い出すのだが、名古屋という街が今日のような大都会になったきっかけの一つに、戦前も戦前、その昔に『汎太平洋博覧会』なるものが催されたということをご存じの方はどれほどあろうか。まあ古いことだからくだくだしい話は止すが、ともあれ当時としては、名古屋が近代都市へ大発展を遂げるために必要であり、十二分にその効果があったものだ。
 いま計画されている「万博」に、少なくとも地域に対してその必要性ありとすれば、一体どの部分なのだろうか。最近の新聞のスクープに始まった一連の騒動の中で見えてきたのが「新住計画」なるものであり、そこをBIEが鋭く衝いていて、はしなくもそれまで曖昧模糊としていた「愛知万博」の姿が、明るみに出たような気がする。
 またこの一連の騒動の中で、いわゆる官僚体質といわれるものが、随所で露呈されて興味深くもあった。BIEの幹部に対して、通産大臣訪問時は、儀礼的な挨拶程度にしておいてくれ、後でこちらからよく説明しておくから、と懇願するなどその最たるものである。日本にとって都合の良いように「説明」され信じ込まされる大臣こそいい面の皮だが、国会答弁などで屡々指摘されるように、大臣は飾り物にという発想が定着していることこそ、日本の政治が前進しない最大の要因であることを証明している。BIE側との「正確な会見メモ」なるものの発表にも、結局ごく一部の当事者以外は「裸の王様」に祭り上げられているのだという現実が如実に現れていた。(「新住」計画ではないとする弁解がふるっている。アカデミック・ゾーンであり、住むのはそのスタッフだと。どなたがお住みになるかの問題では無いというのに、見当違いも甚だしい。)
 仮に環境問題がクリアされたとしても、愛知県民のはしくれとして、関心を持たねばならないと承知しつつ、しかしながら万博計画に積極的に興味を持つ気になれない最大のポイントは、ハードの問題ばかり先行して、ソフトについては皆目見当が着かないことだ。これは全く「文化会館」フィーヴァーの時と同様であって、「まず万博会場ありき」が出発点であり、「で、そこで何するの?」という素朴な質問に対する具体的な答の用意は皆無であるように思われる。県知事は「ハノヴァー博にならって多くのイヴェントを計画したい」とおっしゃっているようだが、そのイヴェントの主題はなになのか、この博覧会を通じて世界に何をどのような手段で訴えようとするのか、一日も早くお題目ではなくて具体的に示して欲しい。『海上の森』に斧を入れるにしても「……だから、そこで無ければならないのであり、意味があるのだ……」という論法で願いたいものである。
 そしてこれは、完成時期を万博と連動させている「中部国際空港」問題とも当然無縁ではない。11月のこの欄「いったいあんたがた、何考えてんの?」でも触れたが、あの空港も、小牧空港から海外航空各社が相次いで撤退しているいま、本当の「必要性」は果たしてあるのか? 成田や関空を凌駕する規模の、複数の滑走路を擁し抜群の交通アクセスを誇るものを造ろうとするのならまだしも、莫大な費用とエネルギーを注ぎ込んで、さてどこといって特徴のない平凡なものが出来ました、では意味が無かろう。海面埋め立ての第一歩である漁業補償とやらにしても、その補償額の算定基準は皆目不明で、「交渉」なるものの過程も、第三者から見れば失礼ながら「結局ゴネ得じゃないか」としか映らない。
 一部の「関係者」がやりたい放題の万博では悲しい限り。いったい、誰のため何のために「愛知万博」が必要なのか、答えてくれるのは、いや答えるべきなのは、“ダァレデショネ?”


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 2000年1月第5週掲載

●『拍手』考(1) Teddy
 クラシックの演奏会で、自分が聴衆として客席にいるか、仕事としてステージ脇にいるかに拘わらず、気になる事の一つに『拍手』があります。
 かつて、こういうお手紙を頂きました。『昨日は堀米〔ゆず子)さんのパルティータ2番を聴けて幸せでした。演奏直後、会場のほとんどの人が、もっとずーっと余韻をかみしめたかったのに《社会の常識に従って拍手をしてしまった》ように感じました。堀米さんが「?」の表情をされたのにつられたのかもしれません。
 拍手をしたくない、拍手できないほどの感動というのが、バッハの演奏に対する最高の讃辞ではないでしょうか。……』
 早すぎる拍手……これが一番の問題だと感じです。もちろん曲の性格にもよるのですが、少なくとも演奏者が緊張を解かない限り、まだ演奏は続いている筈です。その緊張感に上乗せした拍手がより一層演奏を引き立てることもありましょうが、一つ間違えばその日のコンサートをブチ壊しかねない。日本の芸能、特に歌舞伎などでは、客席からかかる声が演出の中に組み込まれている場合があり、そうなると、やたらに声をかければいいと云うものではなく、ツボを押さえることが大変重要になります。つまり芝居そのものを熟知していなければなりません。
 また、クラシックの演奏会でしばしば起こる「楽章間」の拍手。感動したときに叩けばいいと寛容な方もおられますが、果たしてそう言い切れるでしょうか。極めてポピュラーな曲でこの問題に悩まされる代表は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」とチャイコフスキーの「悲愴」でしょう。前者は、華やかなワルツを踊り終え、紳士が淑女を優しく労る場面で、一呼吸入れるゲネラルパウゼ(総休止)。ここで拍手が起こるのを嫌う演奏者は、この休止をカットするのですが、やはりコーダの始まりが如何にも唐突です。後者は、勇壮な第3楽章が終わると如何にもそこで「終結」の感じがしてしまいますが、艶麗な終楽章があってこそこの交響曲が構築されているスケールが明確になるというもの。どちらも「余韻」あってこそなのです。
 ところで、拍手と言えばもう一つ、最近のコンサートで耳にする「気になる拍手」―― それは、演奏者の登場する以前から聞こえて来る拍手です。何処から?と云えば、なんと舞台裏からだ!ステージマネージャーが(時には裏方の筈の舞台係も!)送り出しているのです。これもプロのコンサートとしては奇異な現象ではないでしょうか。良い演奏をして戻って来るアーティストを迎えて思わず出る称賛の拍手なら納得が行きますが、客席から姿も見えない内から「早く拍手をせんかい」と催促されるのは、コンサート楽しみにやってきたフツーの客からすれば、大変嫌なものだということをこれらの「関係者」は考えたことがあるのでしょうか。
 もっとも、事の起こりは、ホール建設ブームの結果コンサートに慣れない聴衆の多い場所での催しが増え、その反応の遅さに「教育的指導」の立場から始まったもののようですが、同じ「サクラ」ならいっそ客席に陣取って盛大にやった方が「自然」でしょう。
 とは言え有料の演奏会で時に、演奏者がステージに出て定位置に辿り着き、お辞儀をしてからやおら拍手が始まるという寒々とした光景に直面すると、なんとも切なくなってしまいます。これもひょっとしたら「会話を忘れつつある時代」の影響なのでしょうか。時と場合に応じた自然な意思表示が出来る事、またする事 …… 人間としてもっとも基本的な部分から考えなければならないとは ……。(この項続く)


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