Weekly Spot Back Number
February 2000


23  拍手考(2) 「拍手についての考察」(投稿) 2月 7日版(第2週掲載)
24  拍手考(3) 「もう一度大きな拍手を」 2月14日版(第3週掲載)
25  拍手考(4) 「ブラヴォーと拍手と」(投稿) 2月21日版(第4週掲載)
26  拍手考(5) 「とても嫌味な拍手」 2月28日版(第5週掲載)


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 2000年2月第2週掲載

●『拍手』考(2)
Teddy  演奏会での拍手問題は皆さん大変関心をお持ちのようです。当初予定の(2)の前に、こんなご意見を頂きましたので紹介します。
 なお前回分をご覧になっていない方は、一度お読みください。『拍手』考(1)

『◎拍手についての考察:K.S.(会社員。東京)
 私も一言。これについて考えたことがあります。それを少しのべてみたいと思います。
 仕事の関係で4年間ほどドイツのシュトゥトガルトにおりました。仕事をおえて平均毎週一回はどこかのコンサートにでかけておりました。オペラ、管弦楽曲、ドイツ歌曲、です。
 いつの日か忘れましたがあることに気がつきました。それは例えばバッハの“ロ短調ミサ曲”、“クリスマスオラトリオ”、こういう曲の終わったときはブラボー拍手はないのです。
 ヘルムート・リリンクの指揮のすばらしい演奏がおわり、いままでの音が消えて一瞬静寂がありました。すごく長く感じましたがこのあと拍手はパラパラとさもお愛想のようなものでした。
 そして聴衆は一人ずつ、そこかしこから帰るのです。
 こういう現象に遭遇したのははじめてでしたので、何か演奏がまずかったのかとその時おもいました。しかしこれはその時だけではありませんでした。聴衆はキリストの受難を肌身に感じているためとても拍手する気分になれないのだと理解しました。
 彼等は音楽を確かに聴いている!そしてその音楽の世界観にひたっているのだ、と。
 音がない時間、これも音楽だとその時思いました。バッハの曲の演奏が終わる時それは最高の幸せな一瞬が来ます。
 一方ドイツ人はまたびっくりするくらいはしゃぐこともあります。キーシンはまだまだ元気があり、アンコールを6曲も演奏したのを聞きました。その時モーツァルトの“トルコ行進曲”を演奏しました。このジャズっぽい、体が踊りだすような演奏ははじめてでした。彼もアンコールでリラックスしたのかもしれません。本人がいちばん楽しんでいるようでした。ところが、これが終わるやいなやものすごい足踏みの音、総立ちの拍手、ブラボー、口笛、あらんかぎりの騒音、聴衆の表現です。
 いろいろ考えました。日本人はあまりにもひかえめな画一的な賛辞、演奏会もブランド志向、どうしてもっと自分でものを見て判断しないのだろうかと。
 もはや工業製品とおなじ?音楽産業の副産物なのでしょうか。』


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 2000年2月第3週掲載

●『拍手』考(3) Teddy
 『演奏終了、とたんにブラボーパチパチ余韻を壊す? 感動の発露?』と云う見出しの新聞記事、少し古いものですが概要を……。
『盛んになったブラボーや、演奏が終わったとたんにわき起こるフライング拍手について「マナー違反」とまゆをひそめる人が多い。例えば1996年大阪でのブラームス:クラリネット五重奏曲の例。クラリネットが絶妙の弱音で演奏を終えたが、すぐにフライング気味の拍手が来た。奏者は吹き終えた姿勢のままでしばらく静止し、拍手が一旦収まるまで動かなかった。拍手が鳴りやんでからようやく演奏姿勢をやめ、礼をしたという。「演奏家の《抵抗》だったのではないか」と関係者は話す。云々』。同じ欄で音大教授は「弱音に耳を澄まして鑑賞せよ」と説く。『音楽はリズムで聴く。小節の一拍目で音がやんでも、その小節の終わりまでは休符で曲が続く。さらに言えば、二小節や四小節のまとまりで音楽が流れていれば、そのひとまとまりが終了するまで、曲は続いているのです。フライング拍手やブラボーは、音楽のリズムを遮断する。だから不快に感じるのだろう。(中略)マイクロフォンを通さない生の音で、消え入りそうな弱音にまで「耳を澄ます」ことこそクラシックコンサートの一番いい部分なのだから、じっくり音楽の余韻を楽しんで欲しい。(後略)』
 ともあれ、要は、演奏者が緊張を解くまで、我々も彼等と一緒に音楽の余韻にひたり、生れては消えていった音どもを回想し……共感を確認してから意思表示をすればいいことだと思います。

 そして、これも問題の「もう一度大きな拍手を」 ……
 いささか旧聞ながら、長野オリンピックにひろった話題ですが……TVの中継を見ていてのこと。スキー団体ジャンプでの日本の劇的な金メダル獲得を目のあたりにして、詰めかけた大観衆がチアホーンを鳴らし、ただひたすら「ワーワー」と喚声をあげている中でのフラワーセレモニー(疑似表彰式?)が終り、選手が退場しようとすると、まだ興奮状態の祝福が続いているさなかで司会者(?)の男声の叫び“皆さんもう一度大きな拍手をどうぞ!”――。またか、と、うんざり。それこそバッカじゃなかろか、と思いました。
 皆の感激がまだまだ続いているのに、そこで『拍手』の強要もないもンだ。おまけに考えてもご覧じろ、雪の降りしきる野外ですぞ、まず皆手袋をはめている、その手で無理に叩いてどうなるというのだ。だからみんな“ワーワー”と声を上げているんだ。ともかく、この手の司会者のセンスのなさには愛想が尽きますね。どうしてもなら“選手の皆さん、すてきなドラマを有難う!”くらい言えば、たとえ騒ぎがひとしきり収まっていたとしても、観衆は嬉しがってもう一度盛り上がるでしょうに。
 しかし、およそ「司会者」というものの登場するイヴェント(コンサート含む)で、いまや日常的に聞かされるこの“皆さんもう一度大きな拍手をどうぞ!”のセリフは、テレビ番組の収録時に使われる、例の「ディーレクターが手を回している間、拍手をしていて下さい」というヤラセと同じ発想のようで、白々しい後味しか残りません。
 お義理は結構、みんなが自分の心で正直に反応すること、それが一番大事なのです。


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 2000年2月第4週掲載

●『拍手』考(4) Teddy
 このテーマは、皆さんの関心が深いと見えて、またまたメールを頂きましたので、ご紹介します。

『 感想とちょっと違うかもしれませんが。ブラヴォーと拍手とにについてかねがね気になっていることを書きます。 M. A. (会社員。東京)
 私は良い演奏のあとブラヴォーを叫ぶことが相当多い人間ですが、時々私のブラヴォーを聴いて近くの席で聞こえよがしにこんな陰口を利く人に出くわします。例えば演奏者が女性ピアニストなら、「あれは女なんだからブラーヴァというはずだ」といった具合です。本か雑誌で読んだ知識なのでしょう。たしかにイタリア語の文法にはあっています。しかしそれがニコライエワ相手だったらどれほどの意味があるのでしょう。ロシアで録音されたライヴ録音を聴いてもイタリア式に語尾変化されたブラヴォーを聴いたことはありませんし、何度か実際にわたしが訪ねたことがあるドイツ、オーストリアでも誰も語尾変化などさせていませんでした。陰口先生ならベルリンフィルが相手なら「ブラーヴィ」となるところでしょうが。
 私も独断してはいけないと思いドイツ語の辞書を独独も含めて当たってみました。ブラーヴォしかでていませんし、確か品詞は名詞。少なくとも原語の形容詞ではありませんでした。どういうことかというとイタリア以外の国では、この言葉はあくまで外来語で日本語でいうところの感動詞のような機能で男性形が借入されているのです。 ということでイタリア風語尾変化をこの日本国であまねく普及させようという目論見は西洋人もやらない滑稽な行いということになります。まあ、イタリア・オペラぐらいはイタリア気分にひたるうえでも楽しいでしょうが。これがヴァーグナーの楽劇のあとだったらバイロイトの巨匠も激怒するでしょう。
 まあ陰口先生は相手にするのも下らない気障野郎ということで捨て置けばいいともいえますけれども、どうも日本のクラシックファンの悪い部分を象徴しているようにもおもえます。つまり、音楽そのものを楽しむのでなく、音楽について自らが持つ知識が他とひしていかに優越しているかを楽しむというやつです。
 拍手については一言。私が拍手をするとこれ見よがしに耳をふさぐ暗い客がいるタイプの演奏会があります。あなたたちは演奏会場に何しにきてるのかと言いたい。拍手が聴きたくなければ家で録音でもきいていればいいのです。ちなみに演奏者は力のこもった拍手を受けるとうれしいそうです。私はもう20年以上も生の演奏会にいってますから、当然終わるや否やの拍手などという愚はおかしません。
 ルンデのお客さんは拍手が熱心で実に楽しくなることを付け加えておきましょう。名古屋がなつかしい。』


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 2000年2月第5週掲載

●『拍手』考(5) Teddy
 今週も、しつこく「拍手」のことを。

 先日行われたさるコンサートのアンケートに、こんなのがありました。
 『演奏が終わってからのセレモニーが長い。アンコール曲をやらないなら早く終わって。』
 前後の状況を説明すると、オーケストラ、独唱と合唱による素晴らしいモーツァルトが終わったときのこと。感動した聴衆が熱い拍手を送り続けました。指揮者とソリストは何度も出入りして、聴衆の惜しみない賛辞に答えます。何も付け加える必要のない、満足一杯のコンサート、そして余韻を楽しむ拍手――。やがてオケが退場し、最後に合唱団がステージを去るまで、その拍手は続いたのでした。
 本プログラム終了後の拍手と答礼は単なるセレモニーなのか? 拍手はもう1曲をオネダリするためのものにすぎなのか? なんと淋しい発想!
 もちろん、そう言う雰囲気の演奏会もある。胸が痛くなるほどオサムイ拍手だったのが、最後だけはやたらと盛大で……。あるいは、一度引っ込んだら拍手が無くなるオソレがあるので、すぐにおまけを弾く……。
 お義理と励ましは、違う。これから始まる演奏に対する素直な期待感を、盛大な拍手に託したら、特に経験の浅いアーティストには、どんな励ましになることか。期待と感想を、聴衆は拍手に気持ちを込めて表現できる。
 コンサートの「評論」みたいなもので、済んでからどうこうよりも、さあこれから!という方にもっと力点を移せないものでしょうか。

 話は変わりますが、あるコンサートで、とても嫌味な拍手の主を見ました。彼は演奏者の登場にも、曲の終了時にも、とにかく誰よりも早く大きく、しかし多少間の抜けたテンポで手を叩くのです。そしてしかも、許せぬ事に、周りが拍手を始めるとご本人は止めてしまうのです。さもリーダーヅラしよって! もっともオマケがあって、彼氏、一度楽章間でやってしまった。だれも追随しなかった! でも、それにもメゲずに、彼は遂に最後までリーダーたらんと頑張ったのであります。こういうのを「厚顔無恥の輩」と呼ぶのでしょう。せっかく立派な演奏をしたアーティストにも主催者にもお気の毒ながら、全体としては後味の良くないコンサートになってしまいました。
 『拍手』考(1)    『拍手』考(2)
 『拍手』考(3)    『拍手』考(4)

●『拍手』考(5)に対して、早速メールを頂きましたのでご紹介します。

 拍手というのは演奏会で聴衆が意思表示をするほとんど唯一の手段なのです。気に入った演奏なら大いに拍手してよろしい。拍手が長すぎるのを批判するのは論外だと思いますが、あえて此の方に言わせていただくとすれば「そんなに拍手が聴きたくないならさっさと帰ったら?」ということです。
 かのチェリビダッケがブルックナーを演奏したとき、これは東京でもミュンヒェンでも起こったことですが、当然アンコールはありませんでしたけれども延々20分ばかり、当然オーケストラが退場してからも盛大な拍手が続いたものです。ここまでくるといささかファンの集い風になってしまいますがいいではないですか。音楽会は美術品の鑑賞ではなくあくまでコミュニケーションなのです。
 (この『拍手』考冒頭のコンサートは、オーケストラ・アンサンブル金沢第13回名古屋定演の、若杉弘指揮「モツレク」だと思いますが)名古屋ではそう頻繁に聴く機会のない若杉さんの生演奏をしかも高水準で味わうことができたなら、心有る音楽ファンは文字通り「盛大な」拍手で報いたくなるはずです。私はこの演奏会の拍手が長く続いたと知ってかえって内心喝采をおくったくらいです。それをセレモニー呼ばわりするとはこれまた「暗い」人としか思えません。
 閑話休題。先日N響の定期に行きましたが、ここで拍手をめぐるある意味では恒例の椿事がありました。BSの生中継で見た方もいらっしゃるかもしれませんが、チャイコフスキーの第五交響曲でフィナーレのコーダに入る直前にある属和音のフォルティシモによるフェルマータのあとのゲネラルパウゼで拍手が起こってしまったのです。
 多少なりとも和声感覚があれば、この部分が曲の終わりでないことくらいわかるはずですが、調などてんでわからないひとも多いようなので(この曲の場合この音はホ調では属和音ですがロ調の主和音つまりドミソでもあるので)要は「ジャーン」と派手な音が出て途切れると曲も終わりと勘違いする向きがこの国には多いということなのだと思います。
 いずれにしても興ざめなる事この上無し。完全に曲が終わりと演奏者がジェスチャーでしめすまで当分の間この国の聴衆は拍手してはいけないのかもしれません。
 要注意の曲の例をあげておきましょう。チャイコフスキーの第一ピアノ協奏曲の第一楽章のあと。ベートーヴェンのクロイツェルソナタの第一楽章のあと。プッチーニの「トスカ」第三幕のトスカとカヴァラドッシの二重唱。ベートーヴェン第九の終楽章「フォーア・ゴット」のフェルマータ(!)。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」第6楽章のあと。再びチャイコフスキーの「悲愴」第三楽章のあと。
 さらに閑話休題。ピアノ・リサイタルの聴衆は拍手が早すぎる場合が多いと思います。ホールの残響でもなく楽器自体で最後の和音が鳴っているうちから手をたた人が人気ピアニストの演奏会に限って多いのです。例えばおととしのポリーニ来日公演「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の最後がそうでした。
 昔はもっとひどかったようで、ホロヴィッツ最後の来日公演のライヴ録音をきくと全曲目フライングしている不届き者がいます。
 余韻を味わうという姿勢が欠如しているのが第一でしょう。日本のホールはほんの一昔前までは残響皆無のものが大多数でした。そういうホールで慣れている聴衆が昔のくせのまま拍手するのかもしれません。日比谷公会堂で余韻を味わえといってもどだい無理なはなしです。
 でももう日本にも響きが豊かなホールは山ほどあるのです。そろそろ残響を味わう余裕を身につけたいものです。クーベリックがマーラーの「復活」を演奏したとき、曲がおわってからも数十秒拍手が起こらなかったが次第にパラパラと拍手が始まり最後はまさに嵐のような盛り上がりをみせたというルポを読んだことがあります。この曲はまさに「ジャーン」と終わる曲なのですから彼我の落差を感じてしまうわけです。
 余韻を味わうということだけではありまうせん。本当にいい演奏かどうかを判断しようと思ったら多少時間がかかるものではないでしょうか。ベートーヴェンの第九には「フォーア・ゴット」のフェルマータのほかに極めて意味深いフェルマータがあることをご存知の方も多いと思います。そのフェルマータはフィナーレの末尾、「音が消えたあとの休止符」についているのです。
           【2/29 M. A. 会社員(東京)】


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