Weekly Spot Back Number
Aug 2000


49  コンピュータ教育 8月 7日版(第2週掲載)
50  年中行事=マンネリズム 8月14日版(第3週掲載)
51  分別収集(2) 8月21日版(第4週掲載)
52  「餅は餅屋」か? 8月28日版(第5週掲載)



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 2000年8月第2週掲載

Teddy●コンピュータ教育
 小中学校での生徒児童への「コンピュータ教育」の実施が叫ばれている。「一人一台」のコンピュータを導入するとオカミは張り切っているが、他方で現場では「自信ない」先生方が戦々恐々としているのも事実である。ひそかにほくそ笑んでいるのは、関係メーカーであり納入業者であろう。大体文部省などでは、「コンピュータ教育」を「取扱い説明」程度に手軽に考えているのではないか。そもそも「教育」とはそんなものではあるまい。
 どの分野でもそうだが、「教える」ためには「教えたい」ものを持っていなければ始まらない。たとえば「音楽を教える」ならば、まず自分自身が「この感動を是非人にも伝えたい」と言う実体験をすることがスタートで、それから「これを教える」と言うものを掴んでこそ可能になる。
 では、今回の動きはコンピュータの何を、誰が教えようとするか、明確になっているだろうか。そして「コンピュータのこれを教える」と言うものを持っている「先生」はどれくらい確保しているのだろうか。もしそれが単に「取扱い説明」なら、結果は市販のソフトを買ってきて「動かす」=インターネットやメール、ゲームを楽しむのが関の山で、そんなら別に学校で教えなくても、子供達のファミコンやテレビゲーム機の操作ぶりをみればわかることである。
 最近の新聞報道に拠れば、信じがたい事だが、大学の理科系学生の理数科目での学力が低い、という問題が起きているそうである。コンピュータを「活用」するためには、数学や物理の知識と、論理演繹の能力が必要であることは当然である。それがなければ、電卓が計算能力を低下させ、ワープロが国語の力を弱めると同様の結果を起こすだけだ。
 少し話がそれるようだが、先日なんとも名状しがたい事実を体験した。
 大阪からの帰途、近鉄特急で、のんびり車外の風景を楽しんでいると、こども達の話し声が耳に入ってきた。聞くともなく聞いていて、愕然とした。彼等は通路を隔てた席に陣取る母親と5歳から10歳くらいまでの3人の男の子の一団である。どうもゲームに夢中になっているようで、その内容たるや「刀で刺して殺したるデェ」「ああ、血だらけやァ!」「今度はこうして……」等々、およそ全てがコロスのヤッツケルのと、実に殺伐たるもの。何とも耳を覆いたくなった。桜井、榛原、室生……と、移りゆく美しい窓外の景色には相応しくないバックグラウンドに、一時間以上も悩まされ続けたのである。別にこのことと、最近屡々見られる未成年者による殺人事件とを結びつけようとは思わぬが、自分の周囲に広がる自然のありのままを、居ながらにして俯瞰できる時間を持ちながら全く関心を持たず、いつでも遊べるたかだか10センチ四方の液晶の中に吸い込まれて、反社会的な行為のシュミレーションに熱中する姿には、そして黙って食べ物を勧めるだけの母親の態度にも、正直言って大変淋しい思いをした。
 様々な違法・不法・非道徳的なホームページが氾濫するインターネット界の現状を見るとき、まともな感性を持ち合わさないものにとってこの技術は、この上ない危険なオモチャであるという側面を無視することはできない。コンピュータに支配されるのではなく、それを真に人間的な生き方に活用しようという壮大な ヴィジョンのもとに、「コンピュータ教育」とその前提に必要なるものを、腰を据えて見つめて欲しいものである。

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 2000年8月第3週掲載

Teddy●年中行事=恐るべきマンネリズム
 また、その季節がやってきた。『お盆の休みを故郷で過ごす人たちの帰省ラッシュが始まりました。東京駅発の新幹線は……』『お盆休みで各地の高速道路は混雑しています』『お盆休みを海外で過ごす若者や家族連れで、空港は混み合っています』。テレビのニュース番組で、このアンダーラインのところを、「年末年始」「大型連休」と置き換えて、年3回、飽かずに繰り返される光景である。報道番組年中行事には、これに、成人式といえば女性の振り袖姿のみを追う映像と、ちょっと異質ではあるが終戦記念日の閣僚の靖国神社参拝公人私人問題も加えておこうか。
 特に、最初に挙げた各季節での人の動きを取り上げる報道には飽き飽きした。毎度全く同じ事の繰り返しでしかない。人はみんなトカイに住んで、必ずフルサトがイナカにあるのか。長い休みにはカイガイにでかけるのが日本人のジョウシキなのか。そしてリポーターの「インタビューのつもり」らしき質問のくだらなさ。それになによりも馬鹿馬鹿しいと思うのは、その日一日、ニュースの時間毎に、全く同じ映像と解説のセリフが繰り返されることだ。その繰り返されるシーンのどこが、その日一日の多岐にわたる人々の営みの中でそうされる価値のある『決定的瞬間』なのだろうか、と、ギリギリしていたら、先日、新聞の投書欄に痛快な一文を見つけた。イナカの少年曰く「ぼくは夏休みになると、街に住んでいるおじいさんの所へ行きます。でも、街の空気の汚れているのにはビックリしました……」云々。
 前述の「インタビューのつもりらしき質問」の紋切り型の例――子供をつかまえて「楽しかった?」「ウン」。追い打ち「どんなところが楽しかった?」「……いろいろ遊んだから……」。このインタビュアーは相手に一体何を答えさせたいのか? もっとも、これにも子供の巧まざる秀逸な答があることも……(空港で海外から帰国した家族に)「ボク、何が楽しかった?」「あのね、ホテルのプールで泳いだのがよかった」。もういい加減に、こんななんの報道価値もないことは止めたらどうだろう。取り上げるとしたら、まあせいぜい鉄道や道路の「混雑情報」ぐらいでいいんじゃないの?(相手に一体何を答えさせたいのか?の、ほかの顕著な例は、「あなたにとって戦争とは何ですか?」といった形式の質問である。大体の場合、質問者の側は、この気取った質問の模範的な回答例をチャンと持っているが、それは質問される方には、当然の事ながら予測のしようもない。)
 いずれにせよ、マンネリ化させてはならない年中行事は、その意義をしっかり見据えて掘り下げた報道をしつこく心がけて欲しいし、生活の中に溶け込んでしまって、なんの問題もない部分は、殊更あげつらうこともあるまいと思うのだが。

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 2000年8月第3週掲載

Teddy●分別収集(2)
 最初に断っておくが、私は決して名古屋市の始めた「分別収集」に反対なわけではない。諸外国の対応ぶりなどを見聞きしているので、むしろ遅きに失したのを嘆く一人である。女房ドノなどは早くからリサイクルを気にして、紙パックや段ボール、プラスティック製品、ガラス瓶、スチール缶とアルミ缶等々と、キーキー云いながら分けてい、こちらも晩酌を一杯やった後始末など、いつも文句を言われ続けている。しかしこれまでは折角家庭で分けてみても、それを効果的に持ち込むに便利なところが無くて、勢い広くもない我が家の小部屋が一つ「ゴミ集積場」になっている有様だった。とこうするうちにやっと分別収集が始まって「ヤレ嬉しや」思ったのもつかの間、今度は分別方法が「素材別」ではなくて「用途別」だの「形状別」だのとの問題が続出して、言ってみればこれまでの努力も水の泡になりかねないことになってしまったのである。ゴミ処理とリサイクルの関係が、今ひとつ判然としないのが名古屋方式なのだ。
 何とか理解しようと、各戸配布の美麗な「保存版・ごみの達人心得帳」と取り組んでみたが、これが読解するには並大抵でない忍耐力を要するシロモノであることがまず判った。今度のシステムで、まず引っ掛かったのが『容器包装』なる聞き慣れない言葉である。この新造語(今までに聞いたことがないから多分そうだと思うが)の定義がどこにも明らかにされていない。「心得帳」には、『商品の容器や包装』とあるが、容器・包装と区切ってみても、この二つの言葉はそもそも意味するところが違うと思う。片方はウツワというモノであるし、他方はツツムコトであろう。「容器・包装材」でなければ「器など包装に使用されたもの」と易しく言って貰った方が納得できる。そして要するに今回の分別収集は、包装に使用されたものをリサイクルするのであって、包装されていたものは対象外だと言うことらしいと判った。お店で買ったワイシャツと、クリーニングから帰ってきたそれを入れた袋は区別せいということだ。これで話が一つヤヤコシクなる。つまり素材・用途が同じなのに、中に何が入っていたかで仕分けする必要がある……ということは、もし商品を入れていた「容器包装」を家庭で「再利用後」ゴミにする時はどうなるの? ビニール風呂敷やタッパーウェアなどを「商品として」買って来て利用したときは「当然容器包装でない」の? そうしたらそう言うものを製造している事業者は『引き取り再商品化する義務』はないの? なんかリサイクルの趣旨がひどく矮小化されているような気がするのだけれど……。
 密閉袋入りの食品を取り出すのに「容器包装」にハサミを入れようとしたら、女房ドノから「待った!」がかかった。ニヤニヤしながら「切り離さないでよ」という。『包装面積が1/2以下のものは容器包装の対象外です』。さあ難しくなった。つまり小さい方の切れ端(当然半分以下)は「燃えないゴミ」で、残りは「資源ゴミ」の方に分けなければならないノダ。「容器包装」として分別されたものが、かつて1/2以上の包装面積を有していたと、当局ではどうやって判断するのだろう。で、「ははあ、ここはヤマダアサエモンの境地だな」と言ったら彼女は変な顔をしていたが、意味を分かって貰えたかしらん。
 この「何々以下」という分類はお役所が大好きな手法で、それが各方面で様々な悪の抜け道や不合理を生んでいるのだが、ここでもそうすることの意味が全く判らない。ティーバッグの「袋」より繊維製品にかかっている「飾り帯」の方がはるかにデカイことなんかザラだと思うのだが。
 また、「出し方」を強調するため、家庭での古新聞や雑誌を束ねてそのまま出しては収集してくれない。「指定袋」という別のゴミをわざわざ付けなければならないというのも如何であろうか。(この項続く)    

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 2000年8月第5週掲載

●「餅は餅屋」か?
 『チェコ室内楽フェスティヴァル』と題する二日連続のコンサートを聴いた。主役は、チェコ第二の都市ブルノに本拠地を置く《モラヴィア・クヮルテット》である。初来日のこのクヮルテットの演奏には痛く心打たれた。
moravia q.  プログラムはチェコの作曲家6名の作品を、3曲づつの二日で、初日はヤナーチェクとスメタナの各1番の弦楽四重奏曲、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲。二日目はヤン・ノヴァークとマルティヌーの弦楽四重奏曲に、ヴィチェスラフ・ノヴァークのピアノ五重奏曲(ピアノはいずれも藤井裕子)というもの。名も知れぬ演奏者と「マイナー」な作曲家の曲が大半とあって、聴衆は初日が60名余、二日目は30名そこそこであった。しかしながらコンサートそのものは、ステージ、客席双方の比類のない緊張感と集中力の中で行われ、共に大きな感動を味わったのである。初日3曲、二日目は4曲のアンコール演奏が行われたことでも演奏者の気分の高揚ぶりが伺われる。特にノヴァークに五重奏曲では、ピアニストが第2楽章半ばから涙を浮かべつつ熱演していたのがいたく印象的であった。
 また彼等が持参したCDの、中でもハイドン:「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」はまさに絶品であり、先頃もてはやされた日本最高クラスといわれる某クヮルテットのCD化されたそれは、残念ながら及ぶべくもないことを痛感させられたのである。「弦の国」と謂われるチェコの音楽界の懐の深さに改めて感じ入ると同時に、(先にこのコラムでも取り上げたが)諸外国での「室内楽」の完成度の深さを、またもやまざまざと見せつけられた。日本の「アンサンブル界」にしばしばみられる、安易な「お仕事」感覚の演奏レヴェルに安んじているプロ諸氏には、格段の発奮を求めたい。もちろん、そのジャンルは「専業するにはお金にならない」という好ましからざる条件が存在するにしても、である。ここは断じて「餅は餅屋」という諺で片づけてしまいたくないものである。

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