●コンピュータ教育
小中学校での生徒児童への「コンピュータ教育」の実施が叫ばれている。「一人一台」のコンピュータを導入するとオカミは張り切っているが、他方で現場では「自信ない」先生方が戦々恐々としているのも事実である。ひそかにほくそ笑んでいるのは、関係メーカーであり納入業者であろう。大体文部省などでは、「コンピュータ教育」を「取扱い説明」程度に手軽に考えているのではないか。そもそも「教育」とはそんなものではあるまい。
どの分野でもそうだが、「教える」ためには「教えたい」ものを持っていなければ始まらない。たとえば「音楽を教える」ならば、まず自分自身が「この感動を是非人にも伝えたい」と言う実体験をすることがスタートで、それから「これを教える」と言うものを掴んでこそ可能になる。
では、今回の動きはコンピュータの何を、誰が教えようとするか、明確になっているだろうか。そして「コンピュータのこれを教える」と言うものを持っている「先生」はどれくらい確保しているのだろうか。もしそれが単に「取扱い説明」なら、結果は市販のソフトを買ってきて「動かす」=インターネットやメール、ゲームを楽しむのが関の山で、そんなら別に学校で教えなくても、子供達のファミコンやテレビゲーム機の操作ぶりをみればわかることである。
最近の新聞報道に拠れば、信じがたい事だが、大学の理科系学生の理数科目での学力が低い、という問題が起きているそうである。コンピュータを「活用」するためには、数学や物理の知識と、論理演繹の能力が必要であることは当然である。それがなければ、電卓が計算能力を低下させ、ワープロが国語の力を弱めると同様の結果を起こすだけだ。
少し話がそれるようだが、先日なんとも名状しがたい事実を体験した。
大阪からの帰途、近鉄特急で、のんびり車外の風景を楽しんでいると、こども達の話し声が耳に入ってきた。聞くともなく聞いていて、愕然とした。彼等は通路を隔てた席に陣取る母親と5歳から10歳くらいまでの3人の男の子の一団である。どうもゲームに夢中になっているようで、その内容たるや「刀で刺して殺したるデェ」「ああ、血だらけやァ!」「今度はこうして……」等々、およそ全てがコロスのヤッツケルのと、実に殺伐たるもの。何とも耳を覆いたくなった。桜井、榛原、室生……と、移りゆく美しい窓外の景色には相応しくないバックグラウンドに、一時間以上も悩まされ続けたのである。別にこのことと、最近屡々見られる未成年者による殺人事件とを結びつけようとは思わぬが、自分の周囲に広がる自然のありのままを、居ながらにして俯瞰できる時間を持ちながら全く関心を持たず、いつでも遊べるたかだか10センチ四方の液晶の中に吸い込まれて、反社会的な行為のシュミレーションに熱中する姿には、そして黙って食べ物を勧めるだけの母親の態度にも、正直言って大変淋しい思いをした。
様々な違法・不法・非道徳的なホームページが氾濫するインターネット界の現状を見るとき、まともな感性を持ち合わさないものにとってこの技術は、この上ない危険なオモチャであるという側面を無視することはできない。コンピュータに支配されるのではなく、それを真に人間的な生き方に活用しようという壮大な ヴィジョンのもとに、「コンピュータ教育」とその前提に必要なるものを、腰を据えて見つめて欲しいものである。
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