【前口上と云う名の苦しい言い訳】 それでも三年ほど続いていた「Weekly Spot」が、昨年夏あたりから怪しくなり9月末で遂にダウンしてしまいました。寄る年波の所為か、このところ体調不良が断続的に襲い、勢い気力も今ひとつ充実せず、何となく「投稿拒否(?)」的状態で穴をあけることが続いて、全く以て「Weekly」の看板が泣く始末。 周囲からの「情けねえナ、しっかりやれよ」とのお叱りもあって、じゃあ新年を契機に何とか再開しよう。でも Weekly というのはストレスの原因になるから、これからは気の向くまま、時間があったら筆を取ると云うことで、マッピラ御免を蒙ります。 どうぞ悪しからず、お付き合いよろしくお願いいたします。 なお、これまでの Weekly のバックナンバーにもアクセス出来ますので、相変わらずのご愛顧の程を。 |
2003年元旦 オヤジ 敬白 |
その1 | 孫悟空じゃあるまいし | 1月 1日版 |
その2 | クイズ・ニッポン 〜 演算型から電卓型への潮流 | 2月 6日版 |
その3 | やりきれぬ「はしゃぎ好き」の「はしゃぎ過ぎ」 | 5月17日版 |
その4 | バカも休み休み言え! | 6月18日版 |
その5 | 「ホウ」「トカ」「ウソッ!」 | 6月22日版 |
その6 | ことば……(1) | 11月13日版 |
その7 | ことば……(2) | 11月28日版 |
【1】 2003年 1月 1日号 |
【2】 2003年 2月 6日号 |
●クイズ・ニッポン 〜 演算型から電卓型への潮流
いささか古い話で恐縮だが、昨年末のこと。決算のための書類の整理(これもついでだから言うが、日本はお役所流に云うところの「年度」が煩わしい。確定申告は「歴年」単位だが、その他はおおむね「教育年度」だ。そして「西暦」と「年号」……。だからすっきりするためにウチの経済年度は1月1日から始まり、12月31日を決算日としている)などしながら、見るともなく点いていたテレビにふと目をやると、折しも型のごときタレント出演の、クイズの場面のようであった。 さて、司会役のこれもタレントが「これは何の略語でしょう?」と掲げたボードには『NHK』と書かれてある。「エェッ! 何?」「なんなの、これッ?!」とかしましい解答者席はいまをときめく『娘。』たち。ひとしきり大騒ぎの末、出された解答はどれも、3文字を食品や芸能人の名前のローマ字綴りのの頭文字にこじつけたもので、なぜ三文字(その三つ)なのか必然性のないものばかり。勿論、正解は「ザンネン、日本放送協会でしたァ」だった。PTAだのNTTだの、略語の例がいくらも身の回りにあるというのに、何故そういうものだと言うことに思い当たらないのか……。ましてや芸能人ともあれば、たしか「テレビ会社」の一つにそういうのがあったっけ、と気が付いてもバチはあたるまい。「N」が日本、「H」が放送(外部からの番組出演者の間では『薄謝』のHか?とも囁かれている)、「K」が協会の、それぞれ頭文字であるとの正解は望むべくもないかもしれないが、である。何もたかがお笑い番組に目クジラ立てることもないのだが、言いたいのは「クイズ番組の面白さというのは、解答者のズ抜けた博識ぶりに周りが驚嘆するところにある筈」なのだ。 ものの本によると「クイズ=教師による試問。謎。」などとある(英和辞典には「からかう、ひやかす」なども訳語としてあり、これは今のテレビ番組を思うとなかなか微妙なニュアンスだ)。『謎解き』『問答』は、世界中で「遊び」になっているが、とりわけ日本では「言葉遊び」と結びついた知的遊戯として、古くから一般的であった。例えば江戸時代から庶民の娯楽であった落語の世界にも、禅問答を茶化した『こんにゃく問答』のような傑作や、『三十石』の一風景である謎解きも秀逸だ(因みに、これら噺の概要はそれぞれの項をご参照の程)。 その昔のNHKラジオ・テレビのクイズ番組には、『話の泉』『私は誰でしょう』『20の扉』『私の秘密』などは、優れた解答者たちがわずかな手がかりから謎を解いてゆく楽しみがあり、ぐっと時代が下って『連想ゲーム』も、すこし柔らかくなったがまだ楽しめた。 これらはすべて解答者自らがヒントを求めて思考し、観客(聴視者)もそのプロセスを楽しんだものだが、最近は総じて若干の与えられたヒントの下の「択一式」で、中にはヒントすらなく全くのアテズッポを要求するものもある。だから解答者はエキスパートである必要はなく、誰でもいいのだ。この「マークシート方式」は、事後、結局正解が何であったかは殆ど記憶に残らないのが特徴だ。『話の泉』などを聴いた後の、ちょっとした物知りになった気分が懐かしい。 また話が逸れるが、この「択一式」について面白い思い出がある。本題に戻って……「クイズ番組」はともかく、ほかの番組にもやたら「クイズ形式」を挿入するのが流行りのようである。それらの中で見た極め付きは、NHKの「ロボコン」であった。本来、この、若い工科学生諸君が協力し合って、難題を克服するオリジナル・ロボットを創り上げ成果を競う催しは、企画として稀に見るヒットであり、次の世代を担う彼等の自由で大胆な発想の数々は、見ていても飽きることがない素晴らしいものである。にも拘わらず前回では、なんと某演歌歌手を解答者のリーダーとするクイズが挿入されたのである! この番組のプロデューサー氏の頭の構造は一体どうなっているのだろうか。そうでなくても回を追うごとに無用のショーアップが進むのを我慢しているのに、愚にも付かぬ中身のクイズに貴重な時間を費やすより、学生達の重ねて来た努力を少しでも多く紹介したらどうなのだろう。「公共放送」としてのNHKが、この番組を企画した当初の意義をどう考えているのか、全くもって理解に苦しむ「事件」であった。 「マークシート方式」の筆頭である大学入試に、昨今はさすがに記述式への回帰が試みられているようではあるが、依然としてプロセスを評価する「演算型」から、結果のみを重視する「電卓型」に、すべての風潮が靡いていることは否めない。生産型でなく消費型の生活現状の典型でもあろうか。 しかしそうなると、とどのつまり、一体誰が創り出すものを消費することになるのか、将来を考えると空恐ろしくさえなるのだが……。 |
【3】 2003年 5月16日号 |
●やりきれぬ「はしゃぎ好き」の「はしゃぎ過ぎ」
最初にお詫びを二つ。 前々からマスコミ(特にテレビ)の「はしゃぎ好き」を苦々しく思っているのだが、近頃もますますエスカレートするばかりなのは情けない限りである。 イラク情勢の報道にしてからが、まるでスポーツ中継のようなノリで、連日お祭り騒ぎだったのはいかがなものだろうか。いや「真実の報道の為に生命の危険を冒してまで頑張っているのだ」と言われれば、まあ確かにその通りかも知れないが、それがテレビ番組となるとどうしても「対岸の火事見物」的な雰囲気が横溢して、実況中継から、果ては模型を作ったり「軍事評論家」と称する奇ッ怪なショーバイ人まで動員したりして微に入り細を穿った「解説」をやらかすという、各局競ってのワイドショーごっこであった。 そして打ち止めが「拾った爆弾」による不幸な死傷事故とは……。 拉致されていた北朝鮮から帰国できた五人についても然り。まるで芸能人のスキャンダルを追いかけると同じ感覚で、個人的な行動まで事細かに「報道」する。深い心の傷を負っているご本人や周囲の日常生活にまで、それこそ土足で踏み込む必然性と権利が何処にあろう。我々一般人は、掛け値なしに「戻ってくることが出来てよかった」と思い、早く日本人として普通の生活に戻って欲しいと願い、そして特にそれ以上の関心を払うことはないのだ。この際為すべきは、他にも多々あるはずの不当な拉致行為に関する真実の解明や、この五人の北朝鮮での家族をも含めた、人々の安否消息の確認という「次のステップ」に進む事である。 しかしながらこの問題についても、マスコミはその「過激追っかけ」の罠に自ら墜ちて、個人情報の公開という明らかなプライバシーの侵害(それ以上の波紋も投げかけかねない)まで犯してしまっている。このような節度のなさ、認識の低さが、みすみす権力による報道規制に口実を与えかねないことを、どうして切実に感じ取ろうとしないのだろうか。 同じようなことは「白い集団」にも当てはまる。 確かに異様ではある。だが、マスコミから与えられた情報だけから判断しても、集団そのものは別にどうということもない。一種の宗教団体であり、その教義らしきものも信ずる人は信ずるだろうが、一般には(申し訳ないが)どれほどの説得力を持つだろうか。ただ問題は、道路の占有など公共の秩序に反する行為が見られることのみである。余談ながら、服装に関して言えばもっと「見苦しい」風俗が堂々とまかり通っているのだから、白装束が変とは軽々しく非難できまい。 十数台の自動車が路側に駐車したり、隊列を組んでノロノロ移動したりするのは、ハタ迷惑である。ましてや自分のものでもない立木やガードレールにやたらに白い布を巻き付けることが不法であることは明白である。だが実は、もっと迷惑なのは、金魚の糞のように彼等にくっついているものすごい数の報道陣の車列であり、報道にあおられて集まった野次馬どもだ。そして過熱報道(これこそワイドショーの格好のネタだ)によって異常な危機感が生まれ、もともと何事もなく過ごしていた「本拠地」のある自治体が戸惑っているのは気の毒である。……5月15日も何事もなく過ぎた。 しかし、これらの「はしゃぎ過ぎ」の極め付きは、何と言ってもNHKの「マツイ・フィーヴァー」であろう。定時ニュースの時間に、松井の出場全試合の、全打席の、全投球を見せるというのは、異様・異常以外の何ものでもない。番組制作担当者は「平和ボケ症候群」の典型的な患者ではないか。または、きっとNHKの皆さんは全員、巨人ファン・松井ファンなのだろう。百歩譲ってそれが「スポーツ・ニュース」の時間であっても、視聴者(有料!)がなぜその身贔屓の「おはしゃぎ」のお相伴をせねばならないのだ。マツイは確かに優れた野球選手ではある。だが、オリンピックの出場選手や、サッカーのワールドカップ代表とは異なり、日本を代表してアメリカに行って戦っている訳ではない。あくまで一個人の職業上の選択として自由意志で赴いただけだ。その彼の当たり前の行為である打者としての全打席・全投球を、もっと追求・報道すべき重要なニュースを差し置いてまで紹介する理由がさっぱり分からない。それなら、二度にわたり、一つの試合を一人で投げ抜き大リーグ・チームを無安打無得点に封じ込めた実績を持つノモの、せめてその試合だけでも全投球をなぜ見せない? 大リーグで紛れもない記録を樹立したその行為こそ報道に値し、ノモの個人的なファンであろうが無かろうが、その快挙を認めるだろう。言っちゃ悪いがマツイの普段の試合の普通の打席や、試合後のインタビューなど、ファン以外には何の意味もない。もっと言えば、積極的にマツイファンを増やすことに精出しているのだ(一体、NHKはあのブーニンを筆頭に、その「擦り込み」がどんな影響を世の中に及ぼしたか、真剣に考えたことがあるだろうか)。小柴教授がノーベル賞を受賞した基であるスーパーカミオカンデの光電管を制作した優秀な企業を、その会社名を伏せて「電子機器メーカー」としか言わなかったのに、プロ野球選手の個人広告ならせっせと出来るという論理は、普通民間人にはとてものことに理解を絶する。 ともかく「はしゃぎ好き」はなんとか我慢するとしても「はしゃぎ過ぎ」るのは、全く以て見苦しい限りである。 蛇足であるが、最初の項、爆弾事件について。 不慮の死を遂げた空港係官の兄なる人が、日本からの謝罪訪問を受け、「その人を家の中に迎え入れた上は、許す。それが我々の文化だ」と言って握手を求めたそうだが、心打たれるものがある。謝罪を要求する上は、許すことが前提でなければならない。許し難ければ、謝罪も受け入れなければいい。どうも一方的に「とりあえず謝罪(この場合は不祥事を起こした側が報道陣に向かって頭を下げること)」すればいいというような風潮、また感情的に謝罪を要求する向きのある我が国の現状を思うと、大変考えさせられる情景であった。 |
【4】 2003年6月18日号 |
【5】 2003年6月22日号 |
【6】 2003年11月13日号 |
【7】 2003年11月28日号 |