Weekly Spot Back Number
September 2002


(142) 2日版  何かが違ったことしの木曽音楽祭
(143) 9日版  「ブルータス、お前もか」(4)
(144)16日版  「予期せぬ出来事」に思う
(145)23日版  「猫を追うより皿を引け」でいいのか?
(146)30日版  避けては通れぬ問題だが



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【142】 2002年 9月 2日号

鳥の歌●何かが違ったことしの「木曽音楽祭」
 避暑地の音楽祭としては間違いなく日本での草分けである「木曽音楽祭」も徐々にファンを増やし、遂に今年は「全席指定」で対応せねばならなくなる迄に発展した。ご同慶の至りである。今年も一日を割いて、もっとも魅力的なプログラム、と独断と偏見で目した「フェスティヴァル・コンサート II (8月24日)」を聴きに出かけた。

 夕闇がかすかに漂い始めた頃、ホール前庭では、木曽駒を背景に篝火が焚かれ、三本のアルペンホルンがのどかなハーモニーを響かせる。無条件に嬉しくなる演出である。そして開場の合図は、今度は普通のホルンの四重奏という念の入れ方。いや、まだまだある。開演前の「1ベル」も、休憩後のそれも、ステージでのアルペンホルン・トリオ――ここで、つい一言。とてものことに、どれもさして長く無い曲だから、なんとか努力して暗譜でやって呉れんかネ。麗々しく譜面台などおっ立てられると、折角の野趣が台無しになるんだがナァ。
 さてコンサート。結論めいたことから先に言うと、今年は一味違った。申し訳ないが、とかくこの種「季節アンサンブル」は練り上げやつっこみが不足気味で、最終的に個人の力量や強力なリーダーに依存するお祭型の結果になるのが通り相場であるようだ。しかし今回はどうしてどうして、「結構やるジャン」と感心させられた。何があったか? これは出演者に聞いてみなければ判らないが、とにかく今迄に無い何かが、あった。

 この日のプログラムは、ベートーヴェン、レーガー、ニーノ・ロータ、ドホナーニ……と並ぶと、やはりベートーヴェンは遠い人、しかも15歳の時の作品ともなればモーツァルトが彷彿として、寺嶋陸也のピアノが佐久間由美子(fl)、岡本正之(fg)を叱咤激励して奮闘していたが、客席で安らかな寝息が洩れていたのもやむを得まい。

 続いて、山本正治のクラリネットを中心に、加藤知子(リハビリから復帰間も無いので、この音楽祭では予定より一曲負担を減らしたそうである)、川田知子、篠崎友美、山崎伸子でレーガーの五重奏曲。この顔触れから察するに、一番ノホホンとしていたクラ氏は、音合わせの時ギョっとしたに違いない。結果、美しく激しく迫る女性群の官能的な声部にからまれて、クラリネット固有のノン・ヴィブラートの凛とした響きが、一段と冴えわたった素晴らしい演奏だった。殊に第3・4楽章の濃密な表現は、この作曲家の特質を遺憾なく描き出した名演。これを聴くにつけても、クラリネット五重奏曲と言えば何を措いてもモーツァルト、たまにブラームス、が定番化されている感があるが、レーガーの味わいの濃さはもっともっと注目されて然るべきだと痛感させられた。
 因みにベートーヴェンの時の「呼び返し」の拍手がいささか儀礼的だったのに対し、この時は文字通り熱烈そのもので、しばし鳴り止まなかったのも頷ける。

「ゴッドファーザー」をはじめとする映画音楽の大家としては知られていても、かのカゼラの弟子としての「クラシック」作品は、日本ではまず演奏された事があるまい。その意味でまさに「珍曲」、九重奏曲という編成からも音楽祭ならではの儲け物であった。プーランクのような諧謔味もあるそれぞれ個性を持つ緩急五曲から成っていて、これは演奏者個々の技量も充分発揮出来、名曲の断片めいたパッセージが顔を出すのも、聴き易さに一役買っていたかも知れない。何せ、無条件に楽しめる曲であり、演奏であった。

 七時に始まったコンサートは、前三曲を終えた時点で、すでに九時になっていた。勿論一人も席を立つ者は無く、最後のドホナーニ。出演は、若林顕、久保陽子、服部譲二、市坪俊彦、堀了介。
 同世代の、バルトークやコダーイとは明確に一線を画し、またレーガーよりももっとロマン派正統の流れを汲むとされるドホナーニ。その作品1のこのピアノ五重奏曲は、しかしほかの誰でもないドホナーニの作品である。その情感溢れる音楽を支えたのは、服部・市坪の内声陣。彼等の野太いサウンドがこの曲に一層の重厚さと憂愁の趣きを与えていた。奔放な久保と隅々まで神経の行き届いた若林のピアノ。そして終楽章のクライマックスでは、そのピアノが男性ならではの(許し賜え、女性方)豪快さで和絃を刻み込んでゆく。まさにピアノ五重奏という演奏形態の極致を見る想いがした。いつまでも途絶えない拍手の渦……。確かに、この音楽祭ではかつてない充実感を覚えたことだった。
  【※この項は、Pippo-jp.com の Concert Pre & Review サイトに寄稿したものです】

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 【143】 2002年9月 9日号

Teddy●「ブルータス、お前もか」(4)
 原子力機関のトラブル隠しがゾロゾロ判明して来るのも嘆かわしい限りである。そもそも人が管理する機械設備やシステムに「絶対安全」などあり得ないのに、何故か「原子力発電は大丈夫だ」と強弁するからこの始末になる。
 最近のこの種の不祥事は、一つ間違えば人の生命にも拘わることが、いとも軽く扱われている。個人レヴェルでも「簡単に人を殺傷する」事態が多発していることと、どこかで連動している様なところが不気味だ。
 原発に戻って……初めから正直に「安全管理には万全を期するが、万が一という事態がないとは言い切れない。起こってはならない事態に立ち至った場合は……」と、最悪の場合を想定した対処を明らかにし、正常ではない事態が発生したら細大漏らさず公表し、これこれの対策を講じたから何ら問題には至らないと説明すれば、まあ部材には経年変化や金属疲労もあるだろうがチャンと手当てをしているのなら、と、誰も余計な心配や勘ぐりはせず、関係者を信頼して委ねる気になろうというものである。
 法律上の規定や罰則などでもそうだが、とかく何々以上とか以下とか、適用範囲や例外を設けるのが好きだから抜け穴だらけで、結局その穴を繕えなくなって、残るのは増大する不安感・不満感だけ。
 信頼回復には、非常に簡単なことだが、原子力施設の瑕疵は大小に拘らず公表、その影響と対策を明確にすること。ついでに、政治献金は貧者の一灯も企業の大口も当価値に扱って透明に処理すること。
 大事なのは相手の信頼を得るために誠意を尽くすことで、目先をもっともらしくごまかす「ことなかれ主義」ではない筈だ。

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 【144】 2002年 9月16日号

Teddy●「予期せぬ出来事」に思う
 9月10日、ドイツ滞在中の現地時間早朝、携帯電話が鳴った。「ギドン・クレーメルさんが来日不能になりました!」ルンデの留守居役嬢の声が心なし震えている――瞬間、あの1998年の悪夢の一日が脳裏に蘇った。台風真っ只中の公演となった「オーケストラ・アンサンブル金沢第10回名古屋定演」である(本欄1999年9月版参照)。今回第18回名古屋定演は9月16日、早速金沢に連絡を取り、岩城氏の決断でコンマスを代演に立て、プログラム変更無しで予定通り決行、と決まりはしたが、何しろ目玉が「岩城&クレーメル」初共演で、予約客も「クレーメルのコンサート」と言うのが多く、主役不在の反応や如何に。結局、精々新聞に頼んで「急告」を打つぐらいで迎えた本番は、予想したよりも「キャンセル希望」は少なく、恐れたトラブル皆無。代演したオーケストラ・アンサンブル金沢名誉コンサートマスター、マイケル・ダウス氏の株が高騰した結果に、スタッフ一同緊張しきっていた肩の力が一気に抜けて、強烈な疲労感に襲われた次第で、まずはメデタシだった。
 このケースは、幸い理解ある聴衆のお陰で事なきを得たのだが、この「予期せぬ事態」に対する反応は様々であって、時には第三者にとっても理解に苦しむことがある。例えば、集中豪雨や無謀新入の車による踏切事故などによって不通となった鉄道の場合。まず例外なく見られる新聞報道の一節に『「何時になったら復旧するのだ」と駅員に詰め寄る乗客も……』がある。鉄道側の対応に明らかな誠意の欠如があればともかく、一方的に権利(あるとすれば)のみ振りかざす事態に、あたかも自分も正義の味方であるようなこの表現は頂けない。いや、多分それを追求すれば「そう言う非常識な人もいることを、客観的に述べただけ」という答えが戻ってくるだろうが、マスコミの影響力は以外に大きくて、ちゃんと報道した意図が正確に伝わるようにしないと、「それが正しいやり方」というスタンダードの提示になっていることを承知して欲しいものだ。こういうケースでは、まず第一の被害者は乗客を対価を取って輸送する鉄道側であり、続いて対価を払って搬送を委託した乗客である。第一の被害者である鉄道に何の落ち度もない場合、まず、ともに「運が悪かった」ことを前提に、お互いにとって最善の解決策を容認し合うべきであろう。
 当事者にとっての不可抗力による「予想できぬ出来事」は、冷静にその立場を認識することから始まらねばなるまい。

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 【145】 2002年9月23日号

鳥の歌●「猫を追うより皿を引け」でいいのか?
 遊園地の雲梯での学童の事故……いかにも痛ましい出来事である。しかし、周囲の対応はどうであろうか。報道メディアの伝えるところは「管理者」の素早い反応=当該遊園地の閉鎖、各地の雲梯体の使用禁止……えっ、それだけ?「事件の教訓を生かす」という発想はまたまたどこかへ行ってしまった? この際まずは、子供とその保護者たちに、この不幸な事例を踏まえて、ランドセルなどを背負ったまま遊具で遊ぶことをあらためて戒める。これは身を守る為の初歩的な躾けの問題である。事件後のテレビが「前からあの遊具は危険だ危険だと思っていた」と興奮してインタビューに答える付近の住人(?)を紹介していたが、過去、その遊具で何人の犠牲者が出ていたのだろう。ブランコ、すべり台、鉄棒、ジャングルジム……どれ一つをとっても「絶対に安心して遊べる遊具」などではない。遊びには遊びの方式がありルールがあるのだ。親は子供に、出来るだけ多くの「生きる術」を教えなければならない。その上で不幸にして事故が起こったとき、それが普遍的にあり得るのか、個別の特殊な場合なのかを冷静に判断する必要があり、しかる後適切な対応が採られるべきである。
 以後の責任回避のごとき安直な解決策として、あっさり子供達から遊び道具を奪うことでは、何の進歩もない。
 再度言うが、およそ危険でない遊具などあろうか。そんなつまらないものばかり並んでいる遊園地などには子供の方で見向きもしまい――そして、家に閉じこもってテレビゲームで憂さを晴らす仕儀となる。
 何もこの問題だけでなく、鉄道のプラットフォームに「防護柵」なるものを取り付けるなどと言う発想には驚くのみである。その伝で行けば、あらゆる乗り物の「停車場」にそれは必要だし、転落防止を言えば、あらゆる河川・海岸・高台も同じ危険を孕んでいる。この「駅の防護柵」が滑稽なのは「列車が停まる」ところに作ってあることだ。立地条件などで専用線を敷設できず、やむを得ず高速列車がフォームを通過するのならば、巻き込まれる危険を回避する意味は充分あろうが(現在の状況では、鉄道側にとって完全に責任を負わずに済む対策は、「列車が到着してドアが開いてから改札口を開く。フォームから人影が完全に消えたのを確認してからドアを閉めて発車する」位しか、まずあるまい)。
 先の遊具の場合と同様「猫を追うより皿を引け」よりもお粗末な発想と言いたいが、しかしそれは同時に、そうしなければならない環境の方が問題なのかも知れない。
 個人が自己に責任を持ち、他者を信頼し認め合うのが、社会生活の一番基本のルールだと思うが、現実は(特に日本のそれは)あまりにも厳しいと言わざるを得まい。


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 【146】 2002年9月30日号

鳥の歌●避けては通れぬ問題だが
 北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)による、邦人拉致事件についてである。小泉首相の訪朝会談で、金正日委員長があっさり「拉致肯定」へ姿勢転換をして見せた見事さには恐れ入るが、祖国を信じ声高に「デッチ上げ」を叫んでいた在日朝鮮総連や、朝鮮労働党との友好関係を前提に「拉致の事実はない」とする姿勢を堅持してきた旧社会党の後継である社民党としては、やりきれない思いに苛まれているだろう。
 しかしこの間の事態で、やはり気に入らないのが外務省の対応である。殊に拉致事実の「確認」に赴いた公使の「務めぶり」には、その意識の低さに言葉もない。狂言の太郎冠者は、克明な対照資料を握っていてさえ、まんまと扇を唐傘にすり替えられた。ましてや手ぶらの状態では、結果は全く子供のお使い以下であることが見え透いている。どだい、自分がどのような重大な事態に直面しているかを全く理解せず、単に命ぜられたから行ったがどうした、はなかろう。最近明らかになった諸事例を見ても、外交官は国家の利益や国民の保護を顧みることなく、上司や政治家のご機嫌を伺うことにのみ汲々としているとしか思えない。田中真紀子氏が開けかけた風穴も、抜群の自己回復力で殆ど塞ぎかけているのが現状である。この拉致問題、小泉首相が当面の矢面に立たされている状況だが、歴代の外務大臣・外務省、そして政府は一体何をやってきたのだろうか。
 ところで、今回「生存」が確認されたとされる方々についてであるが、彼等が拉致された彼地で、極限の状態のもと「生」を選択した心情と、続いてそれを全うすべく払い続けてきた努力を思うとき、果たして、日本への帰国という選択肢はどれほどのウエイトを持っているのか、当人以外知る由もないと思う。もちろん、身内を全く理不尽に拉致された親族・関係者の心情は察するに余りあるとしても、拉致から現在までの時間は、こちらでは全く停止していたであろうが、彼地では(無情に)休みなく経過して来たのが事実である。つまり、この問題には両者に共通する「解決」はあり得ず、それ故、多少の事態の推移などは到底国交回復の前提などになり得ない。然るに……。
 国家間の外交とは非情なものだ、という現実に今更ながら戦慄を感ずるのみである。

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