●モノにも「TPO」がある
年末年始、片付けをしながら見るともなく点けておいたテレビから、やっぱりいくつも気になる場面に遭遇してしまった。普段は、ニュースとスポーツ中継、それにいくつかの「芸術」関連番組(それらにも沢山不満はあるが、それはともかくとして)位しか意識しては観ないのだが……。
コマーシャル。民放であれば不可避の場面。生中継のスポーツでも、ゲームの推移とは全く無関係に几帳面に「定刻」に入ってくる。大雪による各種障害情報を、画面を分割してまで「リアルタイム」に流していて、流れる文字列を読んでいても途中で遠慮なく全画面に切り替わってしまう。
さて、その中の一つに、こんなのがあった。
シンプルな色調で描き出されたバレエのレッスン場。気の利いたオリジナルのバックミュージックに乗って、白い衣装に身を包んだ少女が軽やかに舞っている……美しい場面だ。やがて、踊りをやめた少女が一息入れようと、黒い「テーブル」に駆け寄って、白い液体の満たされたコップを取り上げ、飲む……そう、実は「牛乳」供給団体の宣伝である。問題はその後――飲み終わった彼女がコップを戻したテーブル、だと思ったのが実はグランドピアノなのだ! しかも、その黒く磨かれた蓋の上に直に置くのである。
まあ、あのでっかい平たい「台」は、ものを置くのに絶好の高さを持っていて、つい載せてしまいたくなるものである。しかし、それが家庭の居間や狭い練習室で家具の一員として扱われなければならない場合はいざ知らず、しかるべき場所で楽器として扱われて時は、楽譜がそっと置かれているくらいなら抵抗はないとしても、然るべく敬意を表されるべきであろう。せめて小さなテーブルクロスでも敷くとか何とか考えないのだろうか。このコマーシャルを企画したプロデューサー氏もスタッフご一同も、要するに音楽する場というものに認識がないから、楽器というものに関心がないから、こういう演出も平気なのだろう。そしてそれは電波に乗って津津浦々に広がり、ピアノの上にもの置いてもいいんだ、平気なんだという感覚を浸透させて行く。
こういう人たちは、野球場へ行けば選手の生命であるバットやグラブの上に平気で腰を下ろすに違いない。いや、ひょっとしたら自分のテレビカメラの上に飲みかけのコーヒーの缶や吸いかけの煙草をヒョイと置くことを、全然気にしないのかもしれない。
この文章を書いた直後、ユネスコの無形世界遺産に指定されている能楽の関係者に接する機会があった。聞けば、せっかく日本の文化庁から申請して世界遺産に指定された能楽の世界に対して、国税庁は連綿と受け継がれて来た能面、装束、楽器、世阿弥直筆の謡本などに相続税を課しているとのことである。父子相伝、伝統を守り続けて立派な芸術が成り立っているのだが、それに絶対不可欠であった有形のモノは、お役所にとってあくまでモノにしか過ぎないようである。
お宝鑑定団に登場するような、単なる蒐集品としてあり現実に働いていない骨董品と、それなくしては世界遺産には成り得ず、しかもこれからも引き継がれていかねばならぬ芸術の一端を担うモノも、好事家の道楽的資産と同様にしか認識されず評価されないこの可笑しさ。およそ芸術などには無縁な為政者たちの感覚に、ここでもまた直面させられたのだった。
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