Weekly Spot Back Number
January 2002


122 モノにも「TPO」がある    1月 7日版
123 やっぱり気になるTV−CM   1月14日版
124 この次元の低さよ……  1月21日版
125 目糞、鼻糞を嗤う または
上、行えば、下、是に倣う
 1月28日版



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【122】 2002年 1月 7日号

Teddy●モノにも「TPO」がある
 年末年始、片付けをしながら見るともなく点けておいたテレビから、やっぱりいくつも気になる場面に遭遇してしまった。普段は、ニュースとスポーツ中継、それにいくつかの「芸術」関連番組(それらにも沢山不満はあるが、それはともかくとして)位しか意識しては観ないのだが……。
 コマーシャル。民放であれば不可避の場面。生中継のスポーツでも、ゲームの推移とは全く無関係に几帳面に「定刻」に入ってくる。大雪による各種障害情報を、画面を分割してまで「リアルタイム」に流していて、流れる文字列を読んでいても途中で遠慮なく全画面に切り替わってしまう。
 さて、その中の一つに、こんなのがあった。
 シンプルな色調で描き出されたバレエのレッスン場。気の利いたオリジナルのバックミュージックに乗って、白い衣装に身を包んだ少女が軽やかに舞っている……美しい場面だ。やがて、踊りをやめた少女が一息入れようと、黒い「テーブル」に駆け寄って、白い液体の満たされたコップを取り上げ、飲む……そう、実は「牛乳」供給団体の宣伝である。問題はその後――飲み終わった彼女がコップを戻したテーブル、だと思ったのが実はグランドピアノなのだ! しかも、その黒く磨かれた蓋の上に直に置くのである。
 まあ、あのでっかい平たい「台」は、ものを置くのに絶好の高さを持っていて、つい載せてしまいたくなるものである。しかし、それが家庭の居間や狭い練習室で家具の一員として扱われなければならない場合はいざ知らず、しかるべき場所で楽器として扱われて時は、楽譜がそっと置かれているくらいなら抵抗はないとしても、然るべく敬意を表されるべきであろう。せめて小さなテーブルクロスでも敷くとか何とか考えないのだろうか。このコマーシャルを企画したプロデューサー氏もスタッフご一同も、要するに音楽する場というものに認識がないから、楽器というものに関心がないから、こういう演出も平気なのだろう。そしてそれは電波に乗って津津浦々に広がり、ピアノの上にもの置いてもいいんだ、平気なんだという感覚を浸透させて行く。
 こういう人たちは、野球場へ行けば選手の生命であるバットやグラブの上に平気で腰を下ろすに違いない。いや、ひょっとしたら自分のテレビカメラの上に飲みかけのコーヒーの缶や吸いかけの煙草をヒョイと置くことを、全然気にしないのかもしれない。
 この文章を書いた直後、ユネスコの無形世界遺産に指定されている能楽の関係者に接する機会があった。聞けば、せっかく日本の文化庁から申請して世界遺産に指定された能楽の世界に対して、国税庁は連綿と受け継がれて来た能面、装束、楽器、世阿弥直筆の謡本などに相続税を課しているとのことである。父子相伝、伝統を守り続けて立派な芸術が成り立っているのだが、それに絶対不可欠であった有形のモノは、お役所にとってあくまでモノにしか過ぎないようである。
 お宝鑑定団に登場するような、単なる蒐集品としてあり現実に働いていない骨董品と、それなくしては世界遺産には成り得ず、しかもこれからも引き継がれていかねばならぬ芸術の一端を担うモノも、好事家の道楽的資産と同様にしか認識されず評価されないこの可笑しさ。およそ芸術などには無縁な為政者たちの感覚に、ここでもまた直面させられたのだった。

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 【123】 2002年1月14日号

Teddy●やっぱり気になるTV−CM
 先週テレビ・コマーシャルの気になる場面について書いたが、ほかにも似たような例が多々ある。
 たとえば……
 二世帯住宅――オヨメサンの嫁入り道具のピアノに関心を示したオヤジサンがポンポンやっている。そこへオヨメサンが、食べかけのドーナツ(らしきもの)を手に持ったまま(!)近づき声を掛ける『ヨカッタラ、オシエマショウカ?』。なんたる態度、そしてなんたる言葉遣い! 台本作者も作者だが、それを演ずる役者も、プロデューサーも、スポンサーも、この場面設定と不可思議な日本語のセリフを何とも思わないのだろうか。
 同じような例……
 結婚式場で――裾模様姿の親バカ・ママ(失礼)『お料理の手伝いもしたことのないあの娘(コ)が、結婚するなんて……』と感慨に耽るかと思うと、唐突に(雑な編集としか感じられない如何にもケッタイな短い間合いで、本当にとってつけたように)『自慢の娘だもの……』と脈絡もなく続く。 ?? 家事など一切させたことがないのが自慢なの? それとも本人が何にも出来ないことをママは自慢するの?

 前者の場合、ドーナッツの一件はともかく(そうそう「ピアノを弾く前には、手を洗いましょう」)『ヨカッタラ』という語りかけがまずもってヘンテコリンだ。さらに、それがもし遠慮がちに申し出たつもりなら『教えましょうか?』はないだろう。
 『楽しそう! お相手しましょうか?』とか
 『ピアノ、やってみます? お手伝いしますよ』
とか何とか、言い様も有ろうと思うがどうだろう。

 いずれにせよ、無神経としか形容できない、などと一々目くじらを立てる方がいまやアホなのかも知れないが、マスコミの随所に、何の気概も見られない安易な妥協・迎合が蔓延して行くのは実に哀しいことである。

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 【124】 2002年 1月21日号

Teddy●この次元の低さよ……
 「21日から、東京でアフガニスタン復興支援国際会議が開幕」することを告げる新聞のトップ見出しが『有力NGOを排除』とあるのに驚いた。記事内容から判断するに、どうやら、最も有力な日本NGO代表を紹介した新聞記事の見出しが「お上の言うことはあまり信用できない」とあったのがきっかけで、その代表のところへ外務省から「鈴木宗男代議士が怒っている」から謝りの電話を入れてくれと言ってきたが、それをしなかった故かどうか知らぬが、前日の「アフガニスタン復興支援に関する非政府組織会議」への出席を拒否されていたと言うことのようだ。非政府組織会議への非政府組織代表の出席を、政府が拒否出来るというのもよく判らないが、当の新聞記事は、その見出しがいささか刺激的ではあったが中身は至極穏当で、NGOが現地でどういう働きをしているかを紹介しているものだ。「お上云々」の見出しは、まあ国民の大多数が心の中でそう思っているし、実際毎日のようにそう感じさせられることが起こっているから、政治家センセイ方も目クジラ立てられた義理か。
 大体からして「謝りの電話を入れろ」とはまったく、外務省のオヤクニンの神経はどうなっているのか。自分はいいけれどセンセイがうるさいから電話で謝れ。そうすりゃ出席させてやるというのか。子供の喧嘩じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 周囲から批判されると、今度のことだけじゃない、外務省でも前々から気に入らぬことがあったのだ、などと屁理屈を付けはじめる。そんならそうで最初から「お前達は気にいらんから会議には出るな」と宣言しておけばいい。
 そもそもの発端のように見えるセンセイは「会議に出すなとは言っていない。名前が出てえらい迷惑」などどと言っているが、ここらで、はしなくもセンセイとオヤクニンの間の「以心伝心」の構図が鮮明になったようで面白い。つまり「直接の請託」はなくても「言葉の裏を察して処理」する習慣が出てしまっているのだ。「アレはどうなっているの?」と訊くことは即ち「善処してくれ」という要求だというそれである。
 ……と迄書いて一晩寝て、さて朝刊を見たら、今度は外務省が記者会見で「(拒否されたNGO代表が)22日には(当初の)予定通り参加すると理解している」という何ともはや奥歯にザイモク(モノなどと云う生易しいものじゃなかろう)が挟まったような珍なる発言をしているそうな。これは結局、やはりセンセイからの横槍で一件が起こったことを、立派に証明しているのだ。
 それにしても、である。国際問題の場でも顔を出すこの種の「次元の低さ」は、まったく如何ともし難いものなのだろうか。
 ――日本沈没……。

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 【125】 2002年1月28日号

Teddy●目糞、鼻糞を嗤う または
上、行えば、下、是に倣う

 甚だ品のないタイトルで恐縮だが、そうとしか思えないことに出くわしたので……。
 かの雪印乳業の傍系会社が引き起こした、牛肉詰め替え事件である。確かにオソマツとしか言い様のない馬鹿げた、そして恥ずべき行為であった。それで農林水産相が『国民を欺く行為で、断固とした措置を執る』と息巻いておられるが、そもそもの発端となった「EUからの狂牛病情報の軽視」と「問題発生後の緩慢な対応」はどうしてくれる。それこそ『国民を欺く行為』だったが、当時の大臣も含めたお役人たちに対して『断固とした措置を執』った形跡は皆目見られない。先の『外務省機密費』事件また然り。オカミが激昂すればするほど、こちらはシラケル。自分たちのことは棚に上げて、何をなにを……つまり、目糞が鼻糞を嗤っているに過ぎないではないか、と。
 また、不当な手段で国民の税金を取り込もうとするそのズルサのお手本は、オカミの方々が、しばしば恬として恥じずに範を垂れて御座るではないか。
 不正を働いた民間企業は、即「不買運動」というシッペ返しを喰らうが、オカミに税金を喰いあされたシモジモは「不納税運動」をする事も出来ず、指をくわえて見ているばかりで、当の本人どもは痛くも痒くもないのだから、まことに情けない。
 それにしても、解せないのは、今回の不正に直接関与した者が複数であるにもかかわらず、誰も「ノー」を出せなかったのか、ということである。「見て見ぬ振り」はしばしば話題に上るが、この場合は第三者ではなく当事者が揃いも揃って見ぬ振り出来た神経が恐ろしい。ただ一人の正義漢も存在しなかったとは……。
 生きた人間に油をかけて火を放つ、大勢が寄ってたかって一人に長時間にわたり暴行を加え死に至らしめる……最近頻発するこの種の事件は、単に当事者達の「感覚の麻痺」では片付けられない重大な問題を孕んでいる。
 「感覚の麻痺」と云えば、例のNGO問題では、当事者センセイが「政府に反対の意見を持っている者が政府の会議に出ることがオカシイ」と叫んでいるが、こんな発言が生まれること自体、その奥にいくつものモンダイが見える典型的な例である。なぜギリギリのその時期になって外務省がわざわざNGO大西代表に電話したか、を検証せず、問題がいつの間にか「言った」「言わない」の水掛け論的発言の食い違いだけにすり替わっているが、最も信憑性の高い大西代表の発言内容などは国会では一顧もされない。そして「会議の成功を汚さないために」いい加減で幕を引きたがっている手合いが多いようだが、なんでも「オメデトウ、シャンシャン」で済ませたいところにも、ことの善悪に対する「感覚の麻痺」の例を見ることが出来る。

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