Weekly Spot Back Number
February 2002


126 だから、お上の言うことは信用できない    2月 4日版
127 「公平」とか「公共性」とか……  2月11日版
128 「感動」とは何?  2月18日版
129 これも「塞翁が馬」か  2月25日版



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【126】 2002年 2月 4日号

Teddy●だから、お上の言うことは信用できない
 「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」――最近の政局の混迷具合から、唐突に、こんな唄を思い出した。かつての「軍歌」である。因みに、日本の軍歌は、どういうものかあらかたが、兵士達の厭戦感が滲み出ている様な、暗い、詠嘆調のものだった。後になって現れた「官製」のものは威勢が良かったが……。
 閑話休題。
 例のNGO問題の行く末を見守っている内に二週間近く経過、まだまだ余燼が燻っていて、なかなか幕が引けない。いきおい、この欄のための筆も止まったままだった(ほかにも一杯言いたいことがあるのに、とにかくこの問題をヤリ過ごす気には到底なれなかったのだが)。
 一応は、政治的には訳の判らぬ「喧嘩両成敗」とやらで、田中大臣、野上次官の両方を首にしてチョン。騒動の張本人は申し訳程度に役職辞任で澄ましている。小泉サンは事無く治めたつもりかも知れぬが、「黒を白とし、白を黒とした」ことが「喧嘩両成敗」とは、よく言うよ。しかも問題の発端となった「事件」の「被害者」の証言がうち捨てられて、無意味な問答だけが繰り返されたじれったさと空しさ。
 一連の経過を報道する新聞の紙面で、最重要な人物=NGO代表の記者会見が社会面扱い(いわゆる三面記事)、恫喝常習の小狡い国会議員が所属派閥の会合で英雄扱いされるのが政治面とは、どうにも納得いかぬ。敵と「刺し違えた」ものを称賛するなど、まるっきりヤクザの世界ではないか。どっちが「政治」面でどっちが「社会」面に相応しいことか……。
 政府は後任大臣に、なんと緒方貞子女史を引っぱり出そうとした、とは正気の沙汰ではない。今の日本で、国際的に一目も二目も置かれ尊敬されているほとんど唯一といえる貴重な人材を、こともあろうに「人寄せパンダ」に使って外務官僚のカイライに仕立てようとは。如何に何でも「そりゃ聞こえませぬコイズミサン」。
 それは幸いにして女史が断ったから良かったが、続いて起こった農水相の不信任問題では、「投げ出すのは卑怯。仕事を全うせよ」と大臣辞任を引き留めている。外相更迭とは全く正反対の強弁……
 さらに、ごく最近になって、NGO問題には議員が関わっていたと思われるフシがある、などと言い出す有様では――「どこまで続く泥濘ぞ」。
 まことに、お上の言うことは信用できない。

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 【127】 2002年2月11日号

Teddy●「公平」とか「公共性」とか……
 現代の複雑化した社会生活の中では、これらは一方で強く求められると同時に、その定義、実践が極めて困難でもある。
 早い話がスポーツにつきものの、審判による判定・採点。シドニー・オリンピックの柔道の一件など記憶に新しい(いや、もう古い話か)。フィギュア・スケートや体操競技や、各種コンクール、学校の試験、評論・顕彰、果てはぐっとオチて居酒屋の肴の優劣にいたるまで、およそ「採点」が「人」の評価によるものである限り、絶対に完璧な公平などありはしないのだ。だから「第三者」はその前提に立って結果を受け容れればいい。
 いきなり極論に走ってしまったが、何故こんな事を持ち出したかというと、「春のセンバツ高校野球大会」出場校の決定方法に対して異論が出た、と新聞が報じていたからである(そういえば大相撲の横綱・大関の推挙でも、毎度外野席にケンケンガクガクの論議を巻き起こしている)。「秋の各地区大会はセンバツの予選ではない」と主催者が公言して治めたようだが、「夏の甲子園」がトーナメントの勝ち抜き予選の結果であればともかく文句は出ない(ただし、個々の試合進行にあたって、審判員の「判断」が絡んでいたケースがあったこどうかは不問)。「センバツ」の方は、一県一校(現在)しか出場できない結果から生じる地域差の不公平を緩和するために案出されたものであろうから、最初からどこを出場させるかは主催者の「独断と偏見」が前提でいいのだ。なまじな公平感を持ち込まない方がいい。審査にあたった人たちの見識を容認すれば事足りる。要するに「センバツ」は全国民的な催しではなく、つまりは(全国規模ではあるが)一企業の主催するイヴェントなのだ。
 この「センバツ」は主催者が新聞社という「公共性」を強く意識している機関なので、先の「独断と偏見」を打ち出すことを躊躇させているのだろう。だがこのマスコミの公共性というのも怪しげなもので、その適用範囲は極めて曖昧である。早い話が、他社主催のイヴェントには、その規模が地域的に如何に広いものでも、まず、触れない。反面、自社主催となれば、NHKでもメディアを駆使して臆面もなくPRしまくる。
 変な公共性へのこだわりの例は、国鉄がJRになっても変わっていないところにもある。新幹線で東京から名古屋へ向かっている来日アーティストの随行者に連絡を取りたいと思って、列車電話で「**音楽事務所の○○さん」を呼び出して呉れるよう頼んだら、「ダメ」だと言う。「その方のご住所は?」と聞かれたが、ビジネス上の付き合いしかない者の、そんなプライヴェートな情報など知るわけがない。別に特定商品や企業の宣伝をするわけでもないのに、まことにお堅いことである。
 ルンデを始めてしばらくして、NHKからラジオ番組「人生読本」への出演依頼があった。何に気無しに受けて、いざインタビュー形式の収録になったとき、申し渡されたのが「ルンデという言葉は一切口にしないこと」である。何の社会的地位も輝かしい経歴もない一介の野人に何故アンタは目を付けたのか? それは、個人経営の音楽ホールを作って、たとえば、それまで名古屋を素通りしていたジャンルのコンサートをせっせと企画公演することで、その道の人間の興味を引いたからではなかったのか? どう頑張っても200人すら呼び込めないチッポケホールの名前を持ち出して、どこにどういう悪影響があるというのだ。腹は立ったが受けてしまったものは仕方がないから、モノの考え方だけは述べたのだが、釈然としなかった。そして今でも、NHKを「視聴」するたびに、大企業の人間は個人でも会社名の肩書き付きで登場するのに、その事業を通して社会貢献をした中小企業の人を極めて抽象的な肩書きでしか紹介しないことに矛盾を覚えざるを得ない。
 その昔は、NHKラジオでも、音楽番組に「ハモンド・オルガンの調べ」があり、料理の時間には「味の素」が登場していた。今は世界一長寿を保っている人が「いろいろな記録を集めた本」に登録されるのである。「アナログ地上波テレビ」を見て別に不満も持っていないのに、しつこく「ハイヴィジョン」だ「デジタル放送」だ、さらに(子供の声で)「BS−1!」だとコマーシャルを入れられるのもシャクのタネ。ご都合主義の公共性など真っ平である。

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 【128】 2002年 2月18日号

Teddy●「感動」とは何?
 先頃亡くなった加藤しずえ女史は生前「元気の秘訣は1日10回感動すること」と語っていたそうだ。これは故・松平頼則氏の「人間、好奇心を持てなくなったら死んだも同然だよ」と全く同じ趣意であろう。感動は関心を持たなければ生まれない。つまり非常に主観的なものである。
 Aが「(私は)Bに感動した」、または(第三者Cによって)「BがAに感動を与えた」とは語られるが、B自身の側から「(自らが)Aに感動を与えた」とは、まず言うまい。
 然るに最近は「(他人に)感動を与えたい」と本人自身が公言する場面にしばしば直面する。考えてみれば、これは大変な驕りであろう。だが別の見方をすれば、単に発言者の語彙、表現能力不足故かも知れない。少しでも尋常ならざる事をすべて「スゴイ」で片付け、それにも優るものは「スゴク、スゴイ」としか修飾できない修辞法では、「感ずる」「感心する」「感激する」「感嘆する」「感銘を受ける」etc.も、なべて「感動する」ことになるのも止むを得ぬか。しかし「感動」とはそんなに安手のものでもあるまい。少なくとも、我から「感動を与える」と大見得を切る筋のものでは、断じて、無い。
 少し話はそれるが、いま冬のオリンピックたけなわである。この「オリンピック」について、考えさせられることが多々ある。例えば、このソルトレイク・オリンピックでは、日本選手団の元締めは、当初「金何個を含む10のメダル」とか豪語していたが、結果は「金を含まない2個」に終わりそうである。確かに長野では日本は世界を一歩リードしていたかも知れない。「だが、相手も進歩する」ことを計算していなかった認識の甘さが如実に現れたに過ぎない。アトランタだかシドニーだか忘れたが、水泳選手たちが口々に「楽しんで来マース」とにこやかに出発し、無残な結果に終わったことがあった。いくら「オリンピックは参加することに意義がある」か知らないが、「参加する」だけが強調されて「意義」の方が何処かへ行ってるんじゃないか。勿論、一つの競技にメダルは三個。そこへ世界中から精鋭が集まるのだから、メダルに手が届かなくてもそんなことは一向に構わない。国家間のメダル獲得合戦などは無意味だ。だが、現実に「国を代表」しているのは間違いない、ちゃんと公式に「国代表を決める予選」を行って選抜されたのだから、そこを忘れてはなるまい。野茂やイチローが「個人」の意志でアメリカに渡ったのとはおおきに事情が違う。国家予算でお揃いの着衣まで手当して貰っているのだから、そうそう安直に楽しんで貰っては困る。せめて、レヴェルの格段に違うと判っている相手にでも、それに混じって揉まれることによって、少なくとも「自己ベスト」位は達成すべきは代表としての責務では無かろうか。それにも遠く及ばないのに「自分としては納得の行く結果でした」などと、いやに悟りきったような言葉が出てくるのは不可解至極である。一体、歯ぎしりして自らの不甲斐なさを露わにするほど、闘志を燃やして、己の能力の極限に挑戦しなかったのだろうか。だから清水宏保選手のように、銀メダルを得ながら「無念残念」をあからさまに剥き出しにされた方が、その「競技者としての無念さ」がドシロートにも惻々と伝わって来て、それこそ「感動」もしようというものである。
 本題に戻るが、「感動」は「受け手」の主観である。相手を感動させてやろうと云う衒気に溢れた行動など、夢、心するべきではない。常に己のベストを尽くす姿勢が相手に伝わったとき、「感動」は自ずから止めようとしても止まらず沸き起こってくるのだ。  

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 【129】 2002年2月25日号

Teddy●これも「塞翁が馬」か
 ほんの数日前のこと、必要に迫られてある大手コンピュータメーカー製のソフトウェアを入手しようとした。早くからその存在だけは知っていたが、手持ちハードの方とは関連のないメーカーでもあり、最新の情報には疎かった。それに、どちらかと言えばいまや特殊な部類に属するためか、電気屋街を歩き回ってもトンと見当たらない。とこうするうち、たまたま(いままで気が付かなかった)そのメーカーのPRブースに行き当たった。
 これぞ「地獄に佛」とばかり跳び込んだが、ちょっと薄暗い室内には、見渡すところ最新のハードが若干展示されて居るのみ。もう廃版になったのかも知れないがともかく聞いてみようとしたが、受付嬢はと見ると、カウンターに肘をついてケイタイでおしゃべりに夢中。客(らしき人物)には気が付きもしない。しびれを切らして声を掛けると、やっと「じゃ、また後でネ」と電話を切って向き直ってくれた。
 こりゃ見込み薄かなとも思ったが、ともあれ目的のそのソフトのパンフレットでもあるかと問うと、意外に簡単に引っぱり出してくれた。見れば2〜3年前にヴァージョン・アップしたきりのようだが、ともかく生きているようで一安心。
 機嫌が直ったところで、またおしゃべりの続きが始まる前にと、このソフトはここで入手できるかカウンター嬢に訊くと「リョーハンテンサンのホーにあるんじゃないですカァ?」で終わり。オイオイ、そのリョ−ハンテンサンに無いからここへ来たんだぜ。
 あほらしくなって出てきたが、さてこそ現場の「接客」がどうなっているのか、そこの責任者は把握しているのだろうか。大体、テメェのところに置いてなけりゃ、せめてドコドコでウチの製品は扱ってます、とか、手近なところに問い合わせてくれるとかするのが「案内所」(ひょっとして、あれでもサテライトとかなんとか呼んでいるんじゃないか知らん)だろうに……と、ブツブツ言いながら帰ってきた。
 さて、コンピュータの前に座って落ち着いてみて、ああそういえばオークションというのがあったっけ、と気が付いた。で、早速インターネットにアクセスして探すと、なんと、たった1件だが出ている! オークション終了時間まであとほんの数時間で、まだ間に合う! しかも結構安い値段が付いていて、競争相手は二人のようだ。
 ところが、よく考えてみると、その終了時間前後はちょうど外出先に仕事を抱えている最中で、とてもセリ合ってなどいられない。えい、ままよ、と、思い切って高値をつけてページを閉じ、あとは運を天に任せることにした。
 その夜遅くに、おもむろにメールを開くと「オメデトウゴザイマス。アナタガ……」。やれやれ有り難い、で、いくらなの? おお、コチトラの入札値を遥かに下回る新品定価の四分の一、どうやらその後強力な相手は出なかったと見える。ラッキーでした。しかも出品者が偶然ながら近くの人だったので、翌日にはもう入手して、快適に所期の目的を達しつつあるのだが、さて、と考えてみると、結局は案内嬢の無愛想の結果がこうなったのだから、ここは一番ケーキでも持ってお礼に行かずばなるまいかナ、などとニヤニヤしているところである。

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