126 | だから、お上の言うことは信用できない | 2月 4日版 |
127 | 「公平」とか「公共性」とか…… | 2月11日版 |
128 | 「感動」とは何? | 2月18日版 |
129 | これも「塞翁が馬」か | 2月25日版 |
【126】 2002年 2月 4日号 |
【127】 2002年2月11日号 |
【128】 2002年 2月18日号 |
●「感動」とは何?
先頃亡くなった加藤しずえ女史は生前「元気の秘訣は1日10回感動すること」と語っていたそうだ。これは故・松平頼則氏の「人間、好奇心を持てなくなったら死んだも同然だよ」と全く同じ趣意であろう。感動は関心を持たなければ生まれない。つまり非常に主観的なものである。 Aが「(私は)Bに感動した」、または(第三者Cによって)「BがAに感動を与えた」とは語られるが、B自身の側から「(自らが)Aに感動を与えた」とは、まず言うまい。 然るに最近は「(他人に)感動を与えたい」と本人自身が公言する場面にしばしば直面する。考えてみれば、これは大変な驕りであろう。だが別の見方をすれば、単に発言者の語彙、表現能力不足故かも知れない。少しでも尋常ならざる事をすべて「スゴイ」で片付け、それにも優るものは「スゴク、スゴイ」としか修飾できない修辞法では、「感ずる」「感心する」「感激する」「感嘆する」「感銘を受ける」etc.も、なべて「感動する」ことになるのも止むを得ぬか。しかし「感動」とはそんなに安手のものでもあるまい。少なくとも、我から「感動を与える」と大見得を切る筋のものでは、断じて、無い。 少し話はそれるが、いま冬のオリンピックたけなわである。この「オリンピック」について、考えさせられることが多々ある。例えば、このソルトレイク・オリンピックでは、日本選手団の元締めは、当初「金何個を含む10のメダル」とか豪語していたが、結果は「金を含まない2個」に終わりそうである。確かに長野では日本は世界を一歩リードしていたかも知れない。「だが、相手も進歩する」ことを計算していなかった認識の甘さが如実に現れたに過ぎない。アトランタだかシドニーだか忘れたが、水泳選手たちが口々に「楽しんで来マース」とにこやかに出発し、無残な結果に終わったことがあった。いくら「オリンピックは参加することに意義がある」か知らないが、「参加する」だけが強調されて「意義」の方が何処かへ行ってるんじゃないか。勿論、一つの競技にメダルは三個。そこへ世界中から精鋭が集まるのだから、メダルに手が届かなくてもそんなことは一向に構わない。国家間のメダル獲得合戦などは無意味だ。だが、現実に「国を代表」しているのは間違いない、ちゃんと公式に「国代表を決める予選」を行って選抜されたのだから、そこを忘れてはなるまい。野茂やイチローが「個人」の意志でアメリカに渡ったのとはおおきに事情が違う。国家予算でお揃いの着衣まで手当して貰っているのだから、そうそう安直に楽しんで貰っては困る。せめて、レヴェルの格段に違うと判っている相手にでも、それに混じって揉まれることによって、少なくとも「自己ベスト」位は達成すべきは代表としての責務では無かろうか。それにも遠く及ばないのに「自分としては納得の行く結果でした」などと、いやに悟りきったような言葉が出てくるのは不可解至極である。一体、歯ぎしりして自らの不甲斐なさを露わにするほど、闘志を燃やして、己の能力の極限に挑戦しなかったのだろうか。だから清水宏保選手のように、銀メダルを得ながら「無念残念」をあからさまに剥き出しにされた方が、その「競技者としての無念さ」がドシロートにも惻々と伝わって来て、それこそ「感動」もしようというものである。 本題に戻るが、「感動」は「受け手」の主観である。相手を感動させてやろうと云う衒気に溢れた行動など、夢、心するべきではない。常に己のベストを尽くす姿勢が相手に伝わったとき、「感動」は自ずから止めようとしても止まらず沸き起こってくるのだ。 |
【129】 2002年2月25日号 |