Weekly Spot Back Number
August 2002


140 “ラ・シラソ”と“ファファソソ”  8月 5日版
141 「ブルータス、お前もか」(3)  8月12日版
  8月19日/26日版休載



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【140】 2002年 8月 5日号

鳥の歌●“ラ・シラソ”と“ファファソソ”
 しばしば、当今、巷に流れる日本語の発音の変化についてボヤいて来たが、その発音のせいで意味まで変わって受け取れているのではないかと思われる場面にもしばしば直面する。若者言葉のハシリだった「クラブ」は、本来のクラブ(仮に相対的な音程で表してみると=以下同様)“シラソ”に対して“ファファソ”と発音して特定の意味を持たせて区別した(と主張されている)。これは「彼氏」に対する「カレシ」も同様の発音変化である。そして一方で外来語の「ドラマ」も完全に後者風に移行してしまった。外国語の日本式発音は、いっそ「クラブ」と「くらぶ」、「ドラマ」と「どらま」とでも書き分けようか。
 で、表題の“ラ・シラソ”と“ファファソソ”は、もうお分かりであろう。然り「ア・カペラ」と「あかぺら」(こちらは非常に日本的で「赤ぺら」と思いたくなる)である。前者は a cappella で、音楽事典によれば『「礼拝堂風に」、「聖堂のために」の意。楽器の伴奏を伴わない合唱曲。厳密には宗教曲。14〜5世紀の世俗曲は器楽伴奏を伴うものが普通であった。云々』とある通り、本来は曲の形態を表す語である。後者は、最近の全国紙M紙音楽欄のK氏による一文に代表されるいつの間にか生まれた定義『アカペラとは無伴奏という意味で、人間の声だけで歌うこと。ソロもあるがハーモニーを聴かせる数人のコーラスが基本。古くから世界に伝わる民族音楽に原点がみられ云々』が主流。いまや演奏の形態としてとらえられ「伴奏の楽器がないからアカペラでやろう」などと、本来は器楽付きの曲を臨時に楽器パート抜きでやってしまうことにもっぱら用いられている。これは、だから「ア・カペラ」ではなくて「あかぺら」なのだ。
 折しもテレビ・ニュースが「……現在まだ着工されていない公示が(“ミーミ”。工事“ミレド”だと思うけど)……。……関係する痴呆(“ミソー”? もちろん、地方“ソレー”)の意向も汲んで……」とやっている。多少の発音の変化があったとしても、前後の文章の流れから意味をまあ判断はできるが、いま、仮にテレビ・アナウンサー諸氏が試験官になって、単語(複合語でもなく純粋に単語)の読み上げ〜書き取りテストを実施されたら、恐らく零に近い点しか取れないだろう。原稿の漢字に付けられたフリガナのみを読み上げられても。聞き手は元の字を想像することは不可能なのだ。読み手は何を伝えようとしているのか、甚だ理解に苦しむ場面の連続である。そしてついつい「いつもの話」を持ち出しては周りを苦笑させるのである――「オレの学生時代、『搬送工学』の講義は『美学』から始まったものだった……」。映像や音声を電気信号に変換して先方に送るとき、もっとも心すべきは、対象となるものの「何」を伝えるべきかが正しく理解されているや否やである、というのが担当教授の思想であった……お懐かしや。

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 【141】 2002年8月12日号

Teddy●「ブルータス、お前もか」(3)
 書くのもイヤになるが、今度は「日本ハム」である。何故こうも大企業(正確には「大企業の経営者・管理職」だろう)というのはミミッチイのだろうか。もはや、すべてが「氷山の一角」の陰にあるに違いない。いまや信頼できるのは、「こだわり」と「誇り」の中で誠実に、しかし細々と運営している「無印」生産者だけだろう。
 農水省が、日ハム関係事件でやたらに居丈高になっているのはチャンチャラおかしい。すべてが、元はといえば農水省の怠慢、無定見から発しているのに。身内に対しては何の納得できる処置も施さないで、民間を恫喝する姿勢は許せない。
 ところで、日本ハム製品の忌避が各地、各所で続いているが、これはいささかお門違いだろう。安易な村八分は避けるべきである。もし「不信」を言うならば、他の企業が絶対信ずるに値するとは言い切れないからだ。
 お役所は解決策をすぐ「規制強化」に結びつけて走りたがる。しかしその規制も「表示を厳しくする」だけだが、日本人は「箱書」を重視するから逆に簡単に騙される。「表示」などは生産業者、流通業者、販売業者のモラルに係っていて、それが問題のそも始まりなのだ。
 一方で、消費者はいわゆるブランド指向から脱却して、自らの評価に自信を持つ必要がある。食品で言えば「ウマイものはウマイ」と自分の舌で決めればいい。輸入肉だか神戸牛だが知らないが、結局は食べてみければわからないから、販売業者が責任を持って仕入れた商品を、消費者が自分の好みに合わせて選択し信頼する以外にない。ブランドのみを偏重するからつけ込まれる。これはどんな「もの」でも同じである。
 唐突に思い出したのだが、毎年この時期になると、日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者慰霊の模様がテレビや新聞で大々的に報じられる。航空機事故なら過去に、雫石事件、三原山墜落事故、名古屋空港事故など、大きなものがほかにもあるのに何故だろう? 申し訳ないが御巣鷹山の遺族だけが特別に悲しいわけではない筈だ。ジャンボ機で偶然の事故に遭遇したのではなく、人為的事故に巻き込まれた雫石はじめ、無念の小規模・個人の犠牲者は数知れない。まさかマスコミが「日本航空」「ジャンボジェット」というブランドに魅せられている訳でもあるまいに。

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