Weekly Spot Back Number
Mar. 2001


79  「ソフト」は大丈夫? 3月 5日版(第2週掲載)
80  『親しみ易いコンサート』とは 3月12日版(第3週掲載)
81  精神鑑定 3月19日版(第4週掲載)
82  『堺屋万博』の行方 3月26日版(第5週掲載)



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 2001年 3月第2週掲載

Teddy●「ソフト」は大丈夫?
 首相に成りたての頃、森さんは鬼の首でも取ったように『IT』『IT』と宣っていたが、はて最近はどうなったのやら。まァいろいろ身辺多事多難でそれどころではないだろうが、一度ブチ上げた声は、耳に残ってしまっている。そしてその狙いが、一朝一夕にして(?)『アジア第一のIT大国』になろうという虫のいい話だったことも覚えている。各戸に光ファイバーによる高速通信回線がゆきわたるようにという「工事」は、官民一体となったお得意の公共事業に惜しげもなく金をつぎ込んで難なく実現するだろうが、さて、利用する側の真の需要については一体どういう見通しがあってのことだったのだろう?
 多くのそれが「発信」する内容に見当がつかなくて維持・活動に苦労している「文化会館」たち、誰かにそのヒマと金があるだろうと皮算用したのが見事にはずれた「巨大レジャー施設」群。そして最近では、なおも懲りずに無理に無理を重ねて強行しとうとしている(案の定、利権に群がる官民癒着構図をさらけ出し始めた)愛知万博と海上空港建設……。そしてすべてに共通な、大規模土木建設工事が終わった後の「ソフト」の問題。
 インターネットから「情報」を得ようとして起こる現状の、未整備な部分のほんの一例を挙げてみよう。
 旅行者として他の土地を訪れようと思い立って……その街の情報をインターネットで一覧したい。ホームページのアドレスは? 実はその前に、ドイツを旅行するためにダメモトで www.munich.de/ とやってみたら、ちゃんとミュンヘンが出てきた。感激して道路地図に載っている街を片っ端から試したら、人口千人を下回る町(後述)ですら大抵見ることが出来る。勿論サイトの構成はそれぞれであるが、一つ感じたことは、何よりも旅行者のために情報を提供するという姿勢が強く感じられることであった。これを参考にして日本は如何に?と試してみた。
 結果は無残である。www.nagoya.jp/ はダメだったので検索エンジンで調べるとこれは www.city.nagoya.jp/ なのだ。ふむふむこれがルールか。でも他の県庁所在地、大阪や京都はいいが岐阜はだめ。普通の市もだめ。どうやら「政令指定都市」だけがこれでいけるらしいと判った。だが東京は? これは city.tokyo でなくてなんと metro.tokyo である。岐阜や豊橋は、www.city.(都市名).(県名).jp/ で可能。同様に町は town.で村は vill.とやればOK……らしいとホッとしたら、どっこいそうばかりではなく、全く別のものも多々あることが判って再びがっかりである。例えば岐阜県でも、岐阜市(www.city.gifu.gifu.jp/)、大垣市、多治見市などは先のルールに従っているが、観光地として名高い高山市、下呂町(かの有名な下呂温泉が「町」だと知っている他府県人はどれほど?)は全く違うアドレスを使っている。三重県に至っては、そもそも県庁所在地の津市が前記のルール外のアドレスで、そのくせ四日市は大丈夫といった具合。因みに東京の区部は www.city.(区名).tokyo.jp/ だ。これでは、まず日本の行政制度をしっかり把握しなければならず(街区表示にせよ郵便番号にせよ、この国では市民の利便より官の都合が優先するが、ここでもそれが明白に出ている)、それでもなお且つ例外が多数あって万全ではないので、結局いちいち検索エンジンに頼るか、各「県のホームページ」(これだけは www.pref.(県名).jp/ でなんとか統一されているらしい)にあるリンク集からたどり着かねばならない。しかもそのホームページの大半は(当然ながら自治体が造っているから)『住民への広報』が第一であって「よそ」からの訪問者は二の次である。それに各サイトの区分とネーミングが官用語主体であるのも気になる。結果として、あの京都市でさえ宿泊施設のガイドにたどり着くのにかなり手間がかかった。
 前述のドイツでは、巨大首都 Frankfurtもラインランド・プファルツの田舎町 Balduinstein (人口僅か600人!)も、等しく都市名+.deのルールに従って見ることが出来る。行政区分もなにも知識が無くとも、目的地の名前さえ知っていれば誰でも簡単にアクセスできる。そして必ずトップページに「旅行者向け」のインデックスがあり、またリアルタイムで気象条件や、イヴェントガイドが流れているものも多い。
 とにかく co. だの ne. だの or. だの、また city. town. などとやたらと「官用区分け」が細かいくせに、肝心のところでは一貫性を欠く我が国のインターネット事情の一端をみても、とてものことに政府のおっしゃる「ITの恩恵」にはおいそれと浴せそうにもない。

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 2001年 3月第3週掲載

Teddy●『親しみ易いコンサート』とは
 近年所謂クラシックのコンサートの在り方についていろいろ論議されている。とかく先入観的に「堅苦しい」「面白味がない」と云う烙印を捺されがちで、特に地方都市の主催者は普及に苦慮している。さりとて、文部省推薦の鑑賞教材を代表とする通俗名曲や、アニメやゲーム主題曲をプログラミングすることが、また有名タレントを「司会」に起用することが、本当の意味で「親しみ易い」ことに繋がるのかは大変疑問である。
 1月14日 長久手町文化の家で催されたテレマン室内管弦楽団による演奏会は、一つの形を示唆したかのようであった。
 このコンサートは「長久手町文化の家」の自主事業である。延原武春指揮のもと総員34名編成で来演したテレマン室内管弦楽団は、大阪が本拠だが中京地区にもしばしば進出して活動している。この日のコンサートでは、バッハ「管弦楽組曲第三番」にはじまり、テレマン「オーボエ協奏曲」(独奏延原)、ベートーヴェン「第七交響曲」の本格的なプログラムの合間に、指揮の延原が音楽について簡潔な且つ関西弁特有の語り口で語りかけ、また「運命」交響曲の冒頭を勇敢な聴衆の指揮に委ねるという聴衆参加の試みで、ステージと客席の間に充分な親近感を醸し出すことに成功していた。演奏会終了後のアンケートにも「面白かった」という感想が多くあった由だが、これは単に表面的に面白いというに留まらず(決して「面白い」プログラムではなかった)、コンサート全体に現れていた演奏者の真摯な姿勢が、素直に聴衆に受け入れられたものだと思われる。
 因みに、演奏については、バッハでは過度な感情を排し、あの著名な「アリア」(G線上のアリアとして知られる)も早めのテンポでさらりと演奏して格調を損なわず、ベートーヴェンの「第七交響曲」では一転して、軽快な六拍子の第一楽章、荘重なテーマに始まる美しいヴァリエーションの第二楽章、極度の緊張感を孕んだトリオが見事な快速調のスケルツォ楽章、混迷と歓喜の爆発の交錯する終楽章――すべてが大変魅力的に表現されていた。
 そして何よりも印象的だったのは、楽員平均年齢の随分若そうなこのオーケストラが完全に延原の統率下にあり、全体が快く調和してあたかも一つの楽器の如き響きを発していたことである。これはアンサンブル・グループが所有すべき必須条件であり、その点で小編成オーケストラの持ち味を完全に発揮していたと評価したい。
【この文は『中部経済界』3月号寄稿原稿より引用しました。原本はマスコットのテディベア像をクリックしてアクセスできます】

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 2001年 3月第4週掲載

Teddy●精神鑑定
 あまり取り上げたくない話題なのだが、でもやはり腑に落ちないと思わざるを得ないので、敢えて書くこととする。
 新聞の伝えるところに拠ると、あのアサハラ・ショウコウや幼児虐待致死事件の両親にも「精神鑑定」が行われるそうである。我々の現時点での知識からすると、事件の容疑者に対する精神鑑定は、その事件に対する「責任能力の有無」を判断するために為されるようである。そういえばこんな表現の記事にもぶつかる。曰く『……同容疑者は意味不明な供述をしているため、当局は慎重に対応している』云々。
 明らかに反社会的行為を犯したにもかかわらず、一律に「犯行当時心神耗弱状態の状態にあった」と認定されれば、罪に問われないとする慣行には、率直に言ってどうしても疑問を持たざるを得ない。真に「発作的」な、つまり前後脈絡無い行動であっても許し難いと思うのに、日常は通常の社会生活を営み、あるいは充分な準備と計画に従ってことを進め、その結果の行為や事後の行動が異常であるということで「責任能力」を云々するのは納得できない。これら多くの場合、それは「責任能力の欠如」ではなくて単に「知性・理性の欠落」ではないのか。第一「後日」実施される精神鑑定によって、どうやって「犯行当時」の状態を知りうるだろうのか? シロートには判らない。
 当世「精神鑑定」をして欲しいと思う人物は一杯居る。そして例えば、何億円もの国費を私しながら「慎重な扱い」を受けている「元室長」氏は、そのあまりにも異常な感覚故にひょっとしてすでに「責任能力」を疑われているのではないか? 超多額の金銭を平気で長期間「預かり」、雲行きが妖しくなったら「返せばいいだろう」と開き直り、また何の意味もなく金や物を貰って平然とし、所謂永田町の論理を振りかざしてのし歩いている先生方も、すでに政治家としての責任を問うことは諦められているのか? などと勘ぐってみたりする。
 日常生活のすべての面で法律に縛られ、反抗したくても後ろ盾もなく、さりとて狂いたくても狂えない正常な感覚の持ち主=一般庶民は、ても哀れな存在であることよ。
【※関連するスポット2000年5月「社会的弱者」

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 2001年 3月第5週掲載

Teddy●『堺屋万博』の」行方
 2005年愛知万博企画運営を担当する「博覧会協会」の最高顧問に担ぎ出された堺屋太一氏が、19日名古屋で同協会の理事会・評議委員会に出席、就任の挨拶を行い、その後記者会見に臨んだ、と新聞が伝えている。
 それによると、同氏の発言はなかなか厳しいようで、各方面で戸惑いを隠しきれないようだ。「日本国民で成功すると思っている人はほんの僅かでしょう」などはまことにもっともであって、当事者側の発言としては大胆率直、いままで「玉虫色」に包まれていた部分を思い切ってさらけ出したものである。「万博は文化事業」「土建屋的公共事業ではダメ」と断じる言葉には説得力があり、「なぜ会場計画から入るのか。まずコンセプト、ストーリを作らないといけない」という指摘は、まさに今回の万博の不透明性、不人気の根元をズバリとついていて、思わず快哉を叫びたくなった。因みに、これは音楽界についても全く同様であって、大はホールの建設から小は演奏会の企画まで、一番大事でありながら大概は無視されているのもこの部分である。
 また「絶対失敗するような計画なら中止した方がいい」は当然であり、お粗末な計画で無残な結果を曝すよりは、もしいい智恵が浮かばぬ位なら潔く撤退するにしくはない。ただ、こう言ってくると現状に全てに否定的のようであるが、堺屋氏とて最高顧問を引き受けたからには、勿論悲観的見通しにおぼれているわけではあるまい。少しでも「成功」の可能性を探る立場をわきまえて居られる筈である。氏は、お互いに誰かがやってくれるだろうなどという、何となく他人任せの雰囲気の中で堂々巡りをしていないで、早く真剣な討議を重ねろ、と檄を飛ばしているのである。関係各方面はこの日の辛口の発言を聞いただけで、この人は味方じゃなかったと単純に反感を抱くのではなく、絶対成功させるべく努力することが本分であることを自覚して、今すぐから本気で「汗と涙を流して」取り組んで欲しい。一日も早く「愛知万博は何を目的とするのか」はっきりした姿を描いて見せて頂きたい。
 その描いた夢を実現できる立地条件を、いま目当てにしているところが備えているならば「Go」であろうし、それが不適切な場合、そしてもし他に見つからなければ、これは当然「No」の決断をするべきである。無理矢理こじつけて出来る性質のものでもないことは自明の理だからだ。堺屋氏の「何故会場計画から入るのか。……」の発言は、確かに「今までの経緯を無視したもの」との印象を与えるかも知れないが、催事の規模や環境が会場条件に制約されるばかりの寒々としたイヴェントを、莫大な費用をかけて強行する必然性はどこにもないのである。

 私個人は、これまでこの欄で再三言ってきたように「万博には反対」である。

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