Weekly Spot Back Number
Feb. 2001


75  顔が見えない 2月 5日版(第2週掲載)
76  次から次へと…… 2月12日版(第3週掲載)
77  近頃、耳障りなこと、目障りなこと 2月19日版(第4週掲載)
78  みんなやってる 2月26日版(第5週掲載)



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 2001年 2月第2週掲載

Teddy●顔が見えない
 つい先日のことである。かねてから将来有望と感じていたピアニストの卵がショスタコーヴィッチの協奏曲を弾くというので、とりあえず出かけた。
 コンサートのタイトルは或る外国の室内オケの演奏会という事なのたが、内容は、もう一人のピアニストとのコンチェルト(モーツァルト)と、合唱団(それもこのコンサートのために結成された合唱団だそうだ)が共演する宗教曲の、計3曲だった。つまり、この14名編成の弦楽アンサンブル自体の音楽を堪能させる(単独の)ステージが皆無であるのが、そのタイトルと引き比べて実に奇異であった。
 配られたパンフレットに挟んであったチラシによると、同じオケの演奏会が2日後に別のホールであり、その内容も亦同じくバックグラウンド専門であり、こちらは別の「ソリスト」たちで、おまけに4名に増えている。
 確かにショスタコーヴィッチと宗教曲は弦楽オーケストラでいいのだが、他の計5曲の場合、指定されているのはすべて「管弦楽」であり、あえて「弦楽オーケストラ」で演奏する理由はどこにもない。亦、そうすることによって作品の魅力が彌増すともとても思えない。
 もし仮にこのオーケストラがこの種の編作演奏に長じ、一家言を持つ団体であるのなれば、コンサートの趣意と共に披瀝すべきであろうに、当日の聴衆に配布されたパンフレットには何の記載もない。出演者のプロフィールと曲目解説(原曲の)が型の如く並んでいるだけである。
 主催者はこのコンサートに何を託そうとしたのだろうか。またオーケストラ自体も、これらのステージが自らの名の下に行われることに対してどう考えているのだろうか。客席に座っていても何も見えてこない。実に空しい。
 ソリスト指向の演奏家にとって、特に若い人たちにとって、演奏会のステージに立つ機会は貴重であり、ましてやオーケストラをバックに演奏することは誰もが憧れる(機会を得ること希な)「夢」である。当日のソリスト達は、取りあえず「夢」の一端が実現し、また一つの経験を積んだには違いなかろうが、コンサートの環境を見、薄々察せられる内情を思うと、首を傾げたくもなろうというものである。
 当節、仕掛け人の顔がはっきり見えないこの種の大小コンサートが跋扈している。残念なことである。

 肝心のコンサートの感想だが、お目当ての「卵」嬢はやっぱりしっかりした腕を持っていることを実証した。……他は言うまい。

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 2001年 2月第3週掲載

Teddy●次から次へと……
よくもまァ「こと」が起こるものよ。今度はアメリカの原子力潜水艦が日本の水産高校の練習船に衝突して沈めてしまった。歌舞伎のセリフ『盲亀の浮木、優曇華の……』をまさに地で行ったのだ。そしてすぐに頭をかすめたのは、ずっと以前の雫石上空での全日空機と自衛隊機の空中衝突であった。あの時は確か、折から通りかかった民間機を仮想敵機として標的にし、スクランブルをかけたのが衝突してしまった。まさか今回の「緊急浮上」は洋上の民間船舶を驚かすことが目的ではなかったろうが、結果として多数の行方不明者を出しているその行動の経緯は、是非はっきりして欲しいものだ。
 おまけに、と言ってはナンだが、この事件に関しての森首相の行動が、またぞろヤリ玉に上がっている。事件発生の知らせを受けたのはゴルフを楽しんでいる最中だったとか、そのまましばらくプレイを続け、結局「危機管理センター」に入ったのは第一報を受けてから何時間も経ってからだったらしい。ご本人はその行動をヘドモド弁解これ努めておられるようだが、どう聞いても説得力がない。たとえばスタンドプレーというのもある。通報を受けてすぐゴルフを中止し、ゴルフ・ウエアのままだったから私邸に連絡して着るものを届けさせる手配をしつつ官邸に駆けつける。そして陣頭指揮をとると「さすが」と評価が上がるだろう。また「動くな」と言われたのなら、クラブハウスを臨時の指揮所に仕立てて万端の手配を整える手もあったろう。それに、確かに森喜朗個人がうろうろしても何にもならないだろうが、森首相は然るべく動いて当然である。政府の留守番役も留守番をしていなかったらしいし、これが国家全体に及ぶもっともっと深刻な危機を伴うものだった時に、果たして今回以上に「適切な処置」がとれたかどうか甚だ疑わしい。江戸時代、老中が登城するときは、一旦事が起こったとき無用に民衆を不安がらせないため、平時であっても駆け足で駕籠を走らせたという。為政者として結構な心掛けである。こちらは、今回の場合がたとえ首相が言うように「単なる事故」であったとしても、敏感に反応してくれる政府の姿を国民に見せ安心させる一つの貴重な機会を、自ら放棄してしまったのだ。テレビの伝える街頭での市民の反応は、悲しいことに政府や首相を完全に投げてしまっている。これこそ国家の危機的状況であろう。
 ことここに及んで、日本政府の真の危機管理能力や如何に?

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 2001年 2月第4週掲載

Teddy●近頃、耳障りなこと、目障りなこと
 随分たくさんあるでしょうが……

○その1:ついにここまで来たか……と思わせられたJRの「案内放送」である。
 先月もこの欄で書いたが(人が人を守る2)、いつもあの超親切なご案内にはいささか閉口する。先週末新幹線のホームにいたら、今度は「ホームの端は転落するおそれがあるから黄色い線の内側を歩け」と言うのが追加されている。「発車間際の駆け込みは……」と同様、繰り返し耳に吹き込まれること自体がやりきれない。いや、必死に事故防止を訴えるJRを責める訳では決してないのだが、海岸、川原、崖っぷち……世の中には同じような危険が一杯待ちかまえている。
 何事によらずすべからく我と我が身を守ることが先決である、という意識がもっと徹底されることを望むのみである。
 「案内放送」について、ついでにJRに注文すると、携帯電話に関する「お願い」は、いっそのこともっと単刀直入(とは言ってもニホンゴ独特の謙譲的言い回しにならざるを得まいが)「携帯電話の着信音は周りのお客様の迷惑になりますので、必ずマナーモードでご利用ください」とやったらどうだろう。不快であるのは甲高い信号音や、突如ヘンテコな「音楽もどき」が鳴り出したりすることなので、電話での会話自体は、別段デッキヘ出ずとも最近のマイクの感度の良さから小声で充分通話可能だし(口とマイクを手で囲ってやればいいのに、大声を出さなければ行けないと思っている人が意外に多い。相手が聞き取り辛いのは「声」が小さいのではなくて「通信感度」や「ノイズ」の問題なのだ)、車内の乗客同士が交わす会話と同じマナーで済むことなのだ。

○その2:聞いても見ても、引っ掛かるもの……森首相の「弁解」である。
 あの人は余程「条件」を付けることがお好きなようである。以前からそうであったが、最近「えひめ丸」事件についての対応や姿勢を頻繁に問われるので、口癖でもあろうか「……だとすれば」を連発している。これは発言を直接聞いても、活字になったのを読んでも、カチンと来る。「ゴルフを続けたのが不適切であるとすれば」「国民に誤解を与えたとすれば」云々。これでは「売り言葉に買い言葉」である。そうかい、それじゃ「誰も不適切だと言わなければ、国民が黙っていさえしたら、本当はオレはこっれぽっちも疚しいところはないんだが、ゴチャゴチャ言う奴が居て面倒くさいから、取りあえず謝っといてヤラァ」ということなんだな、と毒づきたくなる不快さだ。

○その3:これも今に始まったことではないが、ついでに……国会中継。
 なんとかならないか、あの原稿の読みっこ。大事なことだから、我慢して傍聴しようと思っても、とても耐えられるものではない。小学校の学芸会にも劣る下手な芝居だ。せっかく「台本」が出来ているのだから、いっそのことプロの演出家と俳優を雇って、「国会の場」を演じて貰ったらどうだろう。もちろん発言はセリフだから「ソラ」で弁じてくれる。適当なヤマ場では丁々発止のやりとりも演出されるだろう。少しは「観ていて面白い」ものになりはすまいか。もっとも「もともと台本がお粗末だよ」と言われればそれまでだが。
 コンサートでも、時折似たようなことがあって、楽譜に書いてある音を(高さ、長さ、強さはとりあえず「暗譜」で)出しているのだが、何も聴き手に伝わってこない演奏に遭遇することがある。「ここを聴いて欲しい」「こんな風に聴き取って欲しい」という働きかけが、てんで感じられないのだ。
 政治家諸氏も、選挙の時の街頭演説は「暗譜」でちゃんとやっているじゃないか。結構身振りよろしくやっているじゃないか。それが、肝心の国会の場で急に三文役者になりさがるのは何故だ? 施政方針演説や、質疑応答の時、内容の正確さを期すためのメモや覚え書きに目をやることはいいだろうが、テニヲハまで読んで、おまけに間違えていては聞いちゃいられない。せめて自分のセリフくらい覚えたらどうだろう。
 まあ「選挙の時だけは真剣」だと言うことなら、そんなものかも知れないと妙に納得もゆくからやりきれない。選挙は重要な手段であり、そこで勝つことが即ち究極の目的である、その間の「まつりごと」はポーズですますことにする……んじゃないか、などと。

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 2001年 2月第5週掲載

Teddy●みんなやってる
 この欄は別に政治批判をするのが目的ではないのだが、ついつい そうなってしまうほど……なのだ。
 例の「えひめ丸−米原潜事件」の時、森首相とその周辺は、二度「みんなやってる」旨の発言をしている。
 一つは無論「ゴルフ場会員権」の問題である。
 税法上明らかに贈与に相当することを、政界では「何ら法的問題はない」として「みんなやっている」ことを首相自ら公言して憚らない。人から物を貰うことをなんでもなく思う習性もさもしいと思うが、また、何の見返りも期待せずに超高額の贈り物をする奇特な人種や、それに何の返礼もしないとうそぶきつつ平気で懐に入れている厚かましい連中が群れている政財界とは、なんとも名状しがたい妖しい世界である。そして、我々下々が***万円の桁の不動産などを取得しても、早速「資金の出所は?」と問いつめてくる税務署が、こと政界がらみとなるといやに鷹揚で何ら動く気配もなく、時効になるまで「みなさんおやりになっていますから」と黙って放っておくのだ。
 その二は「チョコレート」である。「その時」のゴルフで「チョコレート」を賭けていたとかどうとか言う問題である。大のオトナがチョコレートに一喜一憂するはずもなく、これは符丁で実際は現金であろう。パチンコ屋の隣に「景品交換」所がある如く、あるいは麻雀を楽しむ人たちの間での(首相の言葉を借りれば)「努力目標」は公然の事実で、まさしく「みんなやっている」ことである。ここでおかしいのは、そうもあからさまに言えないだろうから、「その時」はゴルフが中断されたため「賭けは成立しなかった」というのだ。で、だから? どうだというのだろう。成立さえしなければいいのか? 「預かったお金は返せばいい」と同じ論理である。ドロボーしても見つかったら返せばいいのだ、脱税していてもバレた時に収めりゃいいんだ、となったら世の中はどうなるだろう?
 隣家から頼まれてしてあげたコピー代収入31円、コンサートの客に振る舞う紅茶に浮かべるレモンを近所の八百屋から買って36円の支出……ちまちまと伝票を起こして決算報告書を作成しなければならない我々に対して、何億円もの「人の金」を勝手に使っても何の咎めもなさそうな世界が同じ日本の中に存在すると云うことは、全くもって不可解至極である。「人の金」を自由に使える立場の者は「きっとみんなやってるんだろうな」と、一般市民は空しく想像せざるを得ない事実が次々に浮かび上がってくると、まともな仕事で汗を流すのが馬鹿馬鹿しくなり、すると今度はそこに付け込んで一攫千金を囁いての詐欺商法で荒稼ぎする奴輩が現れる……所詮庶民は、昔も今も只ひたすらむしり取られるのみである。
 「みんなやっているんから悪くないだろう」という論理を平然と振り回す根性の卑しさよ。「みんなはやっているようだけれど、それはおかしいと思うから、せめて俺だけは絶対やらんぞ」という気概と見識(常識か?)を、せめて一国を統べる立場の人ぐらいは誇示して欲しいものだ。

 私事で恐縮だが「みんなやってる」については、小学生時代の記憶がある。五年生の時であったろうか、「習字」の時間、夏のことであまりの暑さに筆を持ったままの右手を高く挙げて腕まくりをしようとした。その時教壇の教師と目が合ってしまった。「おいッ! 何をやっとる!」と怒鳴られて、一瞬何のことか判らず「どうして?」と口ごもりながらあたりを見回した。すると教師は追いかけるように「自分だけじゃない、みんなもやるじゃないかと言いたいんだろう、バカッ!」と浴びせてきた。つまり子供の悪戯で、筆の墨を飛ばして面白がっていると思ったようなのだ。「みんなもやってるじゃないか」と抗弁したと思われたのは実にシャクであった。その屈辱感が、後に高校・大学と進学し社会に出てからも、なるべく人のやらないことをやってやろうと、ついつい動いてしまう「習性」を身につけるきっかけになったのかも知れぬ。そう考えれば、この教師にはやはり感謝すべきであろう。

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