中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【203】 『ロシア文学翻訳家のドキュメンタリー』  2014. 5. 10

「ドストエフスキーと愛に生きる」(オリジナルタイトルは 五頭の象)というドキュメンタリー映画を観ました。撮影時に84歳だった翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーさん(1923-2010)の、最晩年の人生に密着取材したものです。

彼女はウクライナ生まれのロシア人、スターリン政権下で少女時代を過ごした後、ナチス占領下でドイツ軍通訳をしてなんとか生き延びました。第二次大戦後、大学の講師を経て亡くなるまで、翻訳家として活躍しました。その主な翻訳作品はドストエフスキーの長編五作、罪と罰、カラマーゾフの兄弟、白痴、未成年、悪霊。映画のタイトル「五頭の象」はこれらを指します。
彼女の、翻訳に対するストイックなまでの情熱と、研ぎ澄まされた言葉の世界、清貧とも言える毎日の生活風景を誠実に追った作品でした。心打たれました。

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ある日のスヴェトラーナさんが、白い麻のブラウスにアイロンがけするシーンが、私には特に印象的でした。
「洗濯をすると繊維は方向性を失います。その糸の方向をもう一度整えてやらなくちゃね。布は織りあわされた糸、文章もそう、織物と同じことよ」
「文章(テクスト)と織物(テクスティル)、どちらも「織られたもの、編まれたもの」というラテン語から来ています、2つの語源は同じなの」
「翻訳というのは、左から右へ尺取り虫のように言葉を移し替えるのでなく、一度すべてを自分に取り込み、そしてつねに全体から現れるものなのです」
そんな言葉をつぶやきながら、慣れた手つきで淡々とアイロンをかけるスヴェトラーナさんの表情は、後光が射したように美しく、崇高さが宿っていました。
( Y. N. )