中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【189】 『自筆譜』  2013. 7. 22

美容院で何気なく目にした月刊誌に、《自筆譜は語る》と言うコラムがあり、滝廉太郎の自筆譜のファクシミリが掲載されていた。最晩年1903年のピアノ曲「憾」(その上に作曲者自身によりドイツ語で “Bedauernswerth” と書き記されている)の楽譜だった。憾(うらみ)と言う言葉はある事を憎むではなく、心残りである,と言う意味であるらしい。

彼は留学先のライプチヒから病を得て帰国、弱冠23歳で亡くなった。自らその死を予測していただろう死の4ヶ月前のその作品は、8分の6拍子で書かれ、揺れるようなはかな気な音型だった。印刷された楽譜とは違い、やはり自筆譜にはインパクトがあり、沢山の事を語ってくれるように思う。几帳面らしいペンのタッチからは、音符に込めたこの世への心残りが、伝わってくるように感じた。

自筆譜と言えば、これからの時代はどうなるのだろうか?

同年代の作曲家の友人が「最近は楽譜を書くのが楽になった、私達が学生の頃とは雲泥の差、パソコンで書けるし、追加も修正も清書も印刷も、苦もなく何度でも出来るから・・・」と言っていた。作曲家だけでなく作家も建築家も、そうだろう。作家の中には原稿用紙に鉛筆、と言う方もおられると聞くが、割合でいけばキーボードで打ち込む方が多いだろう。

過去の作曲家の自筆譜を眺める時には私達は「楽譜をこんなに繊細に丁寧に書く人なんだ・・・」とか、「あぁ、ここは全然気に入らなくでペンで汚く消したんだろな」とか、「悩んで悩んで何回も書き直してるな」とか、「この数ページは強い筆致で一気にここまで書いたんだろうな」とか。。。様々な想像を膨らませて楽しむことができる。
現代の楽譜……パソコン上でどんなに何百回もカット、コピー、ペーストを加えても,後からその痕跡は分からない! 綺麗に簡単に直してしまえる代わりに、“作曲した時の苦労の跡” もキレイに削除されてしまう!!のだ。
未来の時代、、、「自筆譜は語るのか? 語らないのか?」
( Y. N. )

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