中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【167】 『どっちも難しい』  2011. 12. 30

今、イタリア語の初歩を少しずつ勉強している。外国語には、名詞や形容詞の場合、その性や数による語尾変化はつきものだ。例えば「家」は「casa」、「白い」は「bianco」だが「白い家」となると「casa bianca」となり、それが複数なら「case bianche」となる。
韻を踏んでいるようにも見えるが、一定の決まりがある。外国語の文法は規則をしっかり身に付ければ、後は慣れるようにすれば良い、と言われる(これが大変なのだが……)。
一方、普段何気なく使っている日本語をよく見ると、我々は実に複雑な語尾変化を平気でやってのけている事に気づく。
例を幾つか挙げてみよう。色を表す形容詞には、緑、白、赤、などがある。緑+家なら「緑家」となり、赤+家なら「赤家」となる。決して「緑家」とは言わない。これを自信を持って説明出来るだろうか?「赤の家」とは言わなくもない?「赤の広場」となればこちらは「赤い広場」では話が通じない。
次の例だ。鉛筆を数えるとき「1本=いっぽん」「2本=にほん」「3本=さんぼん」と言う。「いちほん」「にぽん」「さんほん」では発音し難いのは事実だ。外国語の冠詞類を見ると、発音し難いものは自然に発音しやすくなるよう変化している事があるがそういう事なのか?例えば英語の「apple」の前に不定冠詞「a」がつくと「an apple」となるように。しかしこれは母音が続くと発音し難いので間に「n」をいれる、と簡単に説明がつく。
漢字も難しい。「」は「みっ」、「」は「さんにち」となる。
これまで挙げたものは規則性を見つけるより「こういうものだ」と言うしか無いような気がする。
世界中の言語の中で、日本語は習得するのが特に難しいらしい。となると、それを操っている自分は「なかなかのもんだ」と思えてくる。じゃ、イタリア語の初歩の文法くらいならしっかり勉強出来るはず……、なのだが……。
(H. N.)

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