中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【122】 『スーパー・チクルス』     2009.10.20

先月のシルバー・ウィークは、演奏会に足繁く通いました。名古屋の某ホールの企画「ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲連続演奏会」です。ピアニストは若林顕氏、9月18日(6曲)を皮切りに19日(7曲),21日(7曲),22日(7曲),23日(5曲)と32曲の全ソナタを作曲順に一人で5日間で演奏するという、途轍もない試みでした。
ソナタの全曲チクルスは力のあるピアニストにとってもエベレストに登るほど厳しい道のり、そして普通は1,2年かけて演奏されます。今回の5日間連続は若林さんにとって如何にハードなことでしょう。。。そして自分にとっては多分一生に一度しかないかも知れない体験で、楽しみにフリーパスチケットを買っていました。(因みに、このエッセイを読んで下さっている音楽以外の方のために、この連続演奏会がどれくらい大変な事かを例えると・・・分厚い百科事典の1ページ目から順に最後のページまで、毎日3〜4時間ずつ途中でつっかえる事なく人前で美しく音読して聴かせる・・・ような巨大な仕事です)

私が以前からファンである若林さんは、美しい音と堅実で深みのある解釈を持つピアニストで、素晴らしいアーティストの一人だと思います。気取らない誠実なお人柄は演奏にもそのまま投影されていると思います。今回はやはり特別なプロジェクトなので、普段のリサイタルとはいくらか異なったアプローチをしていらっしゃるようにお見受けしましたが、楽譜に忠実である真摯な姿勢は変わることなく、連日粛粛と演奏されました。
毎日の本番の分量が半端な量ではないので、一体どうやって体や頭の疲れを取っていらっしゃるのか?本番以外のわずかな時間をリハーサルを含めてどんな風に過ごしていらっしゃるのか?などなど、自分も演奏者の端くれとして、演奏の裏側にも関心が及んだ5日間でした。

1日、2日・・・と一生懸命聴き進んでいくと、聴いているだけのこちらまで、まるで自分も弾いているかのような集中した気持ちになり、体力も結構消耗しました。中日(なかび)あたりが終わって次の朝起きた時は、頭がボォーッとして食欲もなくなってしまい、最終日まで聴き通せるかな?と不安になったのでしたが、折角のチャンスなので“登頂”目指して頑張って通いました。

23日最終日は、難曲“ハンマークラヴィーア”を含む28番〜32番の後期ソナタ。「毎日ずっと聴いてきて32番が終わったらどんな心持ちになるのだろう?聴いたー!という達成感でハイテンションになるかも?」と思っていたら全く違いました!やはり後期のソナタは内的な要素が強いのですね。。。しみじみとした温かな静かな気持ちになったのです。感謝の念、祈りにも似た気持ちが湧き、「帰りに誰かとお茶でもしに行こう」なんて気分はどっかに飛んで行ってしまいました。

会場は、演奏者への惜しみない長い拍手に包まれました。初日から最終日まで長い道のりを、ぶれることなく弾き切り、スゴイ・・・の一言です。高い山に登った若林さんの目には、どんな鳥瞰図が見えているのでしょうか?
(Y. N. )

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