中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【112】 『スレンチェンスカさん その1』  2009.6.26

ピアニストの友人が、「ちょっと遠いんだけど素晴らしいピアニストが来日するから行かない?」っと誘ってくれました。初めは岡山と聞いて、どうしようかと思ったのでしたが、名古屋から新幹線ならちょうど東京と同じ時間、、、行くことにしました。
日本ではまだ殆ど知られていない方ですが、ルース・スレンチェンスカさんは知られざる巨匠、そして84歳です。今回はブラームス作品、Op.76.79.116.117.118.119を3日間で全30曲を録音するための来日でした。個人所有の小さなスタジオでの録音、僅かな聴衆も演奏会を聴くというより、ライヴレコーディングにこっそり立ち会わせてもらっているという感じでした。

私が聴いたのは、作品76と118の録音(演奏)でした。
スレンチェンスカさんはとても小柄で、ステージ袖からピアノまで歩く姿は、どちらかといえばトコトコとおぼつかない足取りでした。そして本番前に「少しのエクササイズをしたい」とのことで、練習が始まりました。もちろん練習とは言え、聴衆も一挙手一投足注目しています、作品118の1曲目初めの2ページ程を、「完全ノンペダル、とてもゆっくり、アゴ−ギークを付けずにインテンポで、表の拍にアクセントをつけて」さらい始めました。それが終わると次は、「裏拍にアクセントをつけて同じ方法」をしました。後から聞けば、彼女は自らの師であるラフマニノフやコルトーから10代の頃この方法を学び、84歳の現在もこのやり方でメトロノームの目盛りを一つずつ変えてさらっているそうです。驚きますよね・・・。
今回のこの録音のために毎日8時間×365日×2年間の準備をしてきた、と聞きました。

しばらくの”練習”が済むと録音録画が始まりました。初めて聴く私も、いったいどんな音楽が出てくるのかドキドキして待ちました。録音技師のサインが出ると、先ほどまでのユックリ練習とは全く違う、生き生きとした音楽が溢れ出しました。一気に地球の裏側まで突き抜けて行ったかのような集中力、音のどの瞬間にも生命が宿り、新鮮な発想にあふれ、作品の隅々まで深い美しい色がちりばめられていました。その演奏はあまりにも素晴らしくて、上手いとか綺麗だとかを越えていました。私は涙が出そうになりながら、自分の体が音楽で包まれるのを感じました。
・・・次回に続く
(Y. N. )

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