中岡秀彦/中岡祐子 エッセイ集

【99】 『オリンピックの表と裏』     2008.8.17

 この夏は北京オリンピックの競技をテレビで観戦している。普段全く知らない小さな国々も参加し、また実に様々な競技があるものだと感心する。どの競技も選手達の日頃からの努力と情熱には、本当に頭が下がる想いだ。

 開会式は趣向を凝らした派手な演出だったが、後になって3つの“ニセモノ”が判明してしまった。
 開会式より少し前の時間だったと思うが、地上から「鳥の巣」を撮影した映像が流れたが、その時は曇り空だった。曇り空ではあんなに綺麗な空撮は無理だったはず、なのに美しかった花火の映像は、前もって一年かけてCGで作ってあった映像だった。 

 「少女の歌」は口パク。顔のよい子供をテレビに映し、その陰で声の良い子に歌わせていた。かつてトリノオリンピックでパヴァロッティの歌が前録りで口パクだったことが分かったが、その時は本人の意向だったらしい。高齢のパヴァロッティが寒い中を長時間待って歌うのが辛いという事で、録音された彼の声を流した。今回は大人の都合である。顔を出さずに裏で歌った少女も、声を出さないようにして歌う振りをして顔だけ映った少女も、どちらも心からは喜んでいないだろう。

 「民族衣装を着て踊る子供達」は広い国内の様々な地方民族の子供達が、自分の民族衣装を着て踊った、はずだった。が、実際に踊ったのはすべて漢民族の子供達だった。北京から遠く離れた山間部では、まだまだ貧しくて生活する事だけでも大変な地方がある。「オリンピックは遠い他の国の話」 というのが本音なのかも知れない。

 オリンピック開催のチャンスに、映像を通して世界に国の威信を示したい、と言うのはわからなくない。が、やはり“ニセモノ”は遠慮したい。“虚飾”のために国を挙げて“偽装”をしたとすれば、かえってイメージダウンになるような気がするのだが・・・。

 日本でもこのところ“偽装”という言葉をよく耳にする。どこの国にもあってほしくない言葉である。

(H. N. )

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