原田綾子 ピアノ・リサイタル
Ayako Harada Piano Recital
プログラムノート

≪ バルトーク(1881−1945) : ルーマニア民俗舞曲 ≫
 1915年、バルトークが34歳の時に作曲されたこの曲は、技巧的で演奏効果の高い六つの舞曲からなるが、2年後には管弦楽用に、また友人セーケイにより、ヴァイオリンとピアノ版にも編曲され、バルトークの作品の中でも最も親しまれている曲のひとつである。トランシルヴァニア地方のルーマニアの民族舞曲を素材としている。
I  ジョク・ク・バータ  棒踊り  各節の終わりに棒で地面を打つリズムがつく
II ブラウル舞曲  飾り帯をつけた踊り 美しく着飾った農民のおどり
III 足踏み踊り  ピアニッシモのひそやかな響き
IV プチュムの踊り  3拍子のゆったりした舞踏曲
V ルーマニア風ポルカ
VI マヌンツェル舞曲  急速な踊り、速度を速めて華やかに終わる

≪ バルトーク : 組曲 作品14 ≫
 1916年に作曲された、民族的なリズムや音色を、独自の書法で磨き上げた意欲的な作品。1曲目は1拍に二つの音符、2曲目は3つの音符、3曲目は四つの音符、4曲目は1拍に一つの音符で組曲全体がまとめられている。  
I  アレグレット 三部形式の舞曲調の曲。
II スケルツォ  戦争に行く前、皆が居酒屋で騒いでいる。
III アレグロ・モルト 戦争の只中
IV ソステヌート 戦争のあとのむなしさ、何もない空虚な様子

≪ リスト(1811−1886) : バラード第2番 ≫
 バラードは、中世の吟遊詩人の物語詩による歌曲であるが、器楽曲にも用いられるようになった。リストのバラード第2番は、ギリシャ神話「ヘロとレアンドロス」に基づいているとされる。≪巫女は結婚が許されていなかったので、愛の女神アフロディテの巫女ヘロと、若者レアンドロスの恋は秘密であった。ヘロは毎晩塔に灯をかかげ、レアンドロスは、ヘロに会うために、その灯りを頼りに泳いで海峡を渡った。ある晩、ヘロの灯した光を風が消してしまった。レアンドロスは暗闇の中、目標を失い、溺れて死んでしまう。ヘロは悲しみのあまり塔より海に身を投げ、レアンドロスの後を追った。≫ 

≪ モーツアルト(1756 - 1791) : デュポールのメヌエットによる九つの変奏曲 ニ長調 K.573 ≫
 1789年、モーツアルトは職を求めてベルリンに赴き、ポツダム宮においてプロシャ王フリードリヒ・ウィルヘルム2世に謁見し、丁重なもてなしを受けた。王の御前でピアニストとしての手腕を披露する目的で、宮廷の御用作曲家デュポールのメヌエットをモチーフにした九つの変奏曲を、即興で作り上げたものである。デュポールのメヌエット自体が楽しさにあふれた優雅なもので、モーツアルトのピアノの為の変奏曲の中では最も有名な作品となっている。
 
≪ リスト : 巡礼の年第2年〜イタリア〜より ペトラルカのソネット47番・104番 ≫
 ソネットとは、イタリアのルネッサンスを代表する抒情詩人ペトラルカ(1304-74)による、14行の定型詩。『叙情詩集』にふくまれるソネットから3編を題材にし、リストはテノール独唱用の歌曲を書いた。その三つの歌曲を後にピアノ独奏曲に改編し、7曲からなる、「巡礼の年第2年」におさめた。「巡礼の年」は、リストの音楽による旅行記または音楽的随想集で、第2年はイタリアの芸術作品からのインスピレーションによるものである。
 
 ≪ リスト : スペイン狂詩曲 ≫
 1845年、スペインに演奏旅行に出かけた際のアイデアをもとに、15分を越える長大な「スペインの歌による「演奏会用大幻想曲」を作曲したが、この曲はその後1863年に大幅に改訂され、「スペイン狂詩曲」が誕生した。アラゴン地方の急速な舞曲ホタと、古くから伝わるゆるやかな舞曲フォリアの対照的な二つの部分からなる。1903年5月25日、リスト音楽院の卒業演奏会で、22歳のバルトークはこの曲を演奏し、アンコールは8回にもおよんだという。
 
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≪ リスト音楽院の初代院長リストとそこで学んだバルトークをむすぶもの ≫
 ハンガリーに生まれたリストは、ウィーンで学び、パリに移り、ジュネーブに暮らし、ワイマールで活躍、ローマで修道士となり・・・生涯同じところに留まることがなく、子供のころからのコスモポリタンであった。
 リストの生まれたライディングという田舎町は、ハンガリーの名門貴族エステルハージ公爵家の所領だったが、当時すでにドイツ化して久しく、宮廷でもドイツ語が話されていた。執事だった父親は、並外れた才能を持つ息子のために、エステルハージ家からの援助を確保、家族ぐるみでウィーンに移り、チェルニーとサリエリに師事、12歳のときにパリに移り住み、22歳で「パリの寵児」とよばれるまでになる。史上最高のヴィルトゥオーゾ、ピアノの魔術師とよばれ、1000曲以上の作品をのこした。こうした生い立ちから、ハンガリー語を話せなかったリストだが、60歳をすぎて活動拠点のひとつをブダペストに定め、王立音楽院(現在のリスト音楽院)を創立、初代院長に就任し、祖国の音楽の発展に力を注いだ。当時の音楽院は、現在も旧リスト音楽院として残り、リスト記念館やホール、室内楽などのレッスン室もある。

 リストが世を去る5年前に、ハンガリーのナジセントミクローシュ(現在はルーマニア領)に生まれたバルトークは、幼い時に父親を亡くしたが、教師として一家を支えた母親から、あふれるほどの愛情を受けて育ち、幼いころから音楽的才能を発揮していた。当時のハンガリーは、ハプスブルグ家の支配するオーストリア=ハンガリー二重帝国であり、ハンガリーの音楽文化もまたドイツ/ハンガリーの二重性を持ち、しかもドイツ色が濃厚だった。リスト音楽院で作曲科とピアノ科に学んでいたバルトークは、ブラームスの音楽語法を強制されながらも、ブラームスのスタイルから解き放たれる事を熱望していた。リストのハ短調のソナタに、形式的完璧さを見出したバルトークは、1901年10月21日、リスト生誕90年に当たる日に、音楽院の公開学生演奏会でこの曲を弾き、聴衆は本当のリストを見出した。

 リスト音楽院を卒業したバルトークは、1905年、ブダペスト大学の学生であり、リスト音楽院にも籍を置いていた、1歳年下のコダーイと出会う。コダーイの論文を読んだバルトークは、民謡こそが自分が求めている「ハンガリー的なもの」ではないかと気付いた。同世代の二人の若者は意気投合し、エジソンが発明したばかりの大きな蓄音機をかついで、片田舎へと出かけた。見たこともない機械を怖がる村人たちからは、歌をその場で五線譜にかきとった。
 バルトークはピアノ科の、コダーイは作曲科の教授として、リスト音楽院で教えながら、忘れ去られようとしていた地方に残る古い民謡を採集するという、難儀なフィールドワークを長い間行った。そして二人は生涯、民謡の研究を続け、ハンガリーの音楽界に貢献した。
 
 リストとバルトークを結ぶ人物、リストの愛弟子であり、バルトークの師であったトマーン・イシュトヴァーンは、晩年のリストが「もし、荷物を背にハンガリーの村々を歩き回っていたら、私の民族の本当の調べに出会っていたはずであった。人々の本当の歌に巡り合うハンガリー人がこれから生まれるであろう」とつぶやくのを聞く。リストは、ジプシー音楽をとりいれ、20曲のハンガリー狂詩曲を作曲しているが、ハンガリーにジプシーが流れてきたのは15世紀頃のこと。19世紀にはいると、ジプシー音楽は西ヨーロッパ諸国に知られるようになり、ハンガリーの音楽として広まっていった。ブラームスは、ジプシーの血を引くハンガリーのヴァイオリニストと知り合い、彼から教えられたジプシー音楽に手を加えて「ハンガリー舞曲」を作曲した。ドイツ音楽にはない生彩に満ちたリズム、暗くもの悲しいメロディーは人々の心を捕らえ、瞬く間に大人気となったが、同時に、これがハンガリーの民族音楽という誤解も植えつけてしまった。ジプシー音楽は、本来ハンガリー民族のものではない、ジプシーたちの音楽だといわれている。
 だが、ロマ(現在のジプシーの呼称)の人々がハンガリーにやってきてから既に数世紀が経つ。ジプシー音楽は今日も、ハンガリーの大きな魅力の一つとなっている。バルトークもまた、ハンガリーの真の音楽を見出した作曲家として、人々の心の支えとなっている。
 
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 参考文献 バルトーク物語(セーケイ・ユーリア著、羽仁協子・大熊進子共訳) 音楽之友社
      音楽でめぐる中央ヨーロッパ(横井雅子著) 三省堂      その他

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