金澤 攝
「音のカタログ〜レコーディング・セッション」
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カール・ライネッケ ―― 彼が19世紀のドイツにおいて、最大級の音楽家であったことは疑う余地がない。作曲家・ピアニスト・指揮者・教育者として、全ての面でこれほどの実績をあげた人物が他にあっただろうか。当時のあらゆる音楽家たちの信望と尊敬を集め、長寿を全うしたという点でも、音楽史上稀にみる存在といえるだろう。
今日ライネッケは辛うじてフルートのためのソナタや協奏曲、モーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァの作者として名を留めているのみである。しかし彼が残した作品の量は凄まじい。オペラ、交響曲、協奏曲、合唱・歌曲、室内楽、ピアノ曲等々、作品番号にして288の作品があるが、作品番号なしの作品数はそれ以上にのぼるとみられ、1つの作品番号でも100曲以上の小品を集成したものや、複数の演奏版があるもの、さらに膨大な数のトランスクリプション、バッハ以降同世代までの主なピアノ曲殆どの校訂版、著者など、その巨大な全貌がいかなるものか、把握した人は本人を除いて未だ存在していないと思われる。近年多くの忘れられた作曲家たちのリヴァイヴァルが進む中、ライネッケは今なお、「未知の暗黒大陸」として十分な調査の手が及んでいない。調べれば調べるほど、その超人的な勤勉さに圧倒され、追及を断念するケースが多いのではないだろうか。また子供や学生を対象とした、教育作品のウェイトが大きいことも、演奏家たちの敬遠や無関心を招いていると考えられる。今回の連続コンサートは、こうした作品も含め、ライネッケの前半生に書かれたピアノのための秀作、重要作を4回の(各回演奏正味約90分)ステージで通観しようとする空前の試みである。 ベートーヴェンの第九交響曲が初演された1824年、旧デンマーク領のアルトナに生まれたカール・ライネッケは幼くして母を失い、音楽家であった父(ヨハン・ベーター・ライネッケ 1795-1883)から一切の音楽教育を受けた。11歳のころにはピアニストとしてステージに立ち、13歳で作品1を作曲。18歳でのコペンハーゲンの演奏会は大成功を収めた。1843年からライプツィヒに留学して更に研鑚を積み、45年には欧州各地への演奏旅行を行なった。翌年にはコペンハーゲンのクリスティアン八世より宮廷ピアニストを任じられる。10歳余り先輩にあたるメンデルスゾーン、シューマン、リスト、ヒラーらは一様にライネッケを賞賛し、シューマンは「4つのフーガ Op.72」をライネッケに捧げ、リストは2人の娘のピアノの指導を彼に委ねた。ピアニストとしてのライネッケは、特にモーツァルトの名演奏家として知られ、リストによれば、優美なタッチ、歌うようなレガートが見事であったという。 教育者としては、51年以来ケルンのヒラーの音楽院でピアノと対位法を担当。その後バールメンとプレスラウの音楽監督を経て60年には再びライプツィヒに帰参し、メンデルスゾーンが創設した音楽院の教授に迎えられた。 指揮者としてもメンデルスゾーンの衣鉢を受け継いだライネッケは、同年ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者となり、95年にその座をニキシュに譲るまで、35年の長きに亘ってこのオーケストラを統率し、世界屈指のカ量を定着させた。ここでは彼自身の作品のほか、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の全曲初演、作曲者をソリストとした、サン=サーンスの第3ピアノ協奏曲の初演(いずれも1869年)など、後輩作曲家たちの作品も取り上げられた。ブラームスは後に、私淑していた若きブゾーニをライネッケの許へと送り、師事させている。 ライネッケの非凡な指導力はライプツィヒ音楽院を当代随一といわれるまでに高め上げ、ここでの門下生の中にはグリーク、サリヴァン、シンディング、ディーリアス、ヴァインガルトナーらが含まれている。シベリウスやレーガーも孫弟子に数えられるほか、わが国でも明治33年、海を渡った滝廉太郎が目指したのも、ライネッケが院長を務めていた、この学校であった。 作曲家としてのライネッケは、系譜的にはシューマンとブラームスの間をつなぐドイツの作曲家ということになるが、彼らにはない、自然な明るさと、しなやかで慈しみに満ちた感性が息づいている。これは個性であるだけでなく、人格というべきものであろう。強烈で独りよがりなまでの自己主張がオリジナリティとして尊重されてきた、従来の芸術的価値観の中にライネッケが収まりきらなかったことは当然といえるかもしれない。しかし、こうした穏健で博愛的な資質が、個人的な感情や理念を前面に押し出す人々より劣っているとは私には考えられない。ライネッケは感情の音楽ではなく、感性の音楽というべきであろう。そこにはバッハやパレストリーナから受け継がれた古典的エッセンスを基調として、かのアンデルセンに共通するメルヘン性や、清明かつ構築的なデンマークの風土性が鮮やかに刻印されている。 ライネッケ再生は芸術的価値観の新たな視点を提供するという面においても、意義深いものがあるだろう。 |
金澤 攝 記 |